◆ユネスコ「世界ジオパーク」の隠岐へ

島根県の日本海側、沖へ約50キロのところに隠岐諸島はある。一番大きいのが島後(どうご)、その他の3つは知夫里(ちぶり)島、西ノ島、そして中ノ島である。人口はトータルでわずかに約2万人だが、ユネスコ世界ジオパークに認定された自然豊かな場所。神社が150も残る神々の島。さらに言えば、天皇までもが流された流刑の島…。いくつものキーワードに彩られ、旅人には興味の尽きない島々だ。


◆羽田から3時間で到着

朝、10時半。羽田空港から大阪・伊丹空港へ。そこで飛行機を乗り換えて隠岐空港へ。到着は13時15分。あっと言う間に到着した。

今回は4島を巡る2泊3日のプレスツアーだが、個人的には後鳥羽上皇、後醍醐天皇、そして平安時代の有名歌人で役人でもあった小野篁(おののたかむら・802~852)の「島流しの島」に狙いを絞って回ってみた。

隠岐観光の名所・ロウソク岩。夕陽は出なかったが旅情万点
隠岐観光の名所・ロウソク岩。夕陽は出なかったが旅情万点

◆流人の歴史を探りたい

まず、篁(たかむら)であるが、この人は遣唐使として任命されるも、それを拒否し隠岐に流された。今でいうと人事異動を蹴っとばし、飛ばされた。

ちなみに彼が島にわたる時に詠んだ歌が百人一首にも残る。

わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人(あまの)の釣舟(『百人一首』11番)

「海を越えて行ってきますよ!」と堂々たる詠みっぷり。へこんでいたりしないのである。

承和5年(838年)小野篁は、隠岐の光山寺に移り住む。ここで、帰京を願っては地蔵菩薩を彫る。

◆歌も恋もあった小野篁

身長も180センチを超える大きな男。「見栄えもよく女性にも大変もて、恋のウワサも絶えなかったらしいですよ」とガイドさん。異動先でのモテぶり。昔も今もかわらない人間模様である。

この光山寺の近くに観光スポット「壇鏡の滝」がある。落差約50メートル。雄滝と雌滝の2本が流れ落ちる。当時、傷心の篁はどんな思いでこの滝を見上げていたのか? 思いは巡るのである。

壇鏡の滝。この滝を小野篁も仰ぎみたのだろうか
壇鏡の滝。この滝を小野篁も仰ぎみたのだろうか

◆「ごとばさん」の19年

島後に1泊し、翌朝、渡ったのが中之島の海士町である。

1221年、鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げたが失敗。世にいう「承久の乱」。この仕掛人・後鳥羽上皇は、ここ海士町に流される。島では亡くなるまでの19年間を過ごした。60年の生涯の約3分の1をこの地で生きたことになる。

隠岐神社。荘厳な造りで後鳥羽上皇をまつる
隠岐神社。荘厳な造りで後鳥羽上皇をまつる

海士町の海を見守るように立つのが後鳥羽上皇を祭る隠岐神社。境内のそこここには、彼が詠んだ歌が、のぼり旗とともに揺れる。

歌に優れた人で「遠島百首」には望郷の歌も多い。

「島の人は今でも『ごとばさん』と呼んでいます。当時も地元の人から大切にされ、不自由ばかりではなかったようです。都に手紙を送ったり、九州から刀匠を呼び寄せたり。島民たちが今につながる隠岐の牛突(うしづ)きを始めたのも、この『ごとばさん』を慰めるためだったとか」(ガイドさん)。たいそう、大事にされていたのかも。

代表歌をひとつ。

我こそは新島守よおきの海のあらきなみ風心して吹け

境内には後鳥羽上皇の歌が風にはためいていた
境内には後鳥羽上皇の歌が風にはためいていた

◆知夫里(ちぶり)は絶景の島

この隠岐神社のある中之島・海士町から知夫里島に渡る。

島に上陸すると同時にタクシーで一気に島のてっぺん、標高325メートルの赤ハゲ山の頂上まで。人口もほぼ牛と同じ600人。信号もコンビ二もない。が、美しい海と緑と牛の島である。

赤ハゲ山山頂。ツアーの1人がモデルになってくれた
赤ハゲ山山頂。ツアーの1人がモデルになってくれた
隠岐牛はブランド牛。とろけるような美味だが高価
隠岐牛はブランド牛。とろけるような美味だが高価

◆後醍醐天皇の岩に座る

山の展望台の後は、後醍醐天皇がこの島に上陸し一休みしたという神社へ。

「一宮さん。地元では、みんな『いっくうさん』と呼んでいます。お祭り、御神楽もここで。この村にとっては大変大事な神社」。正確には天佐志比古命(あまさしひこのみこと)神社。ここの境内の端に後醍醐天皇が上陸し、休んだといわれる「腰掛けの岩」が。

後醍醐天皇が上陸した知夫里には腰掛け岩が
後醍醐天皇が上陸した知夫里には腰掛け岩が

後醍醐天皇は後鳥羽上皇から遅れること約100年。この島へ島流しになっている。

その岩に実際に座ってみると足が地面に届かない。本当にここに後醍醐天皇はお座りになったのか?

「そうなんですよ。天皇さまは地面に足がついて汚れたりしてはいけない…、そういう待遇だったんだと思いますよ」と、これもガイドさん。

後醍醐天皇は2年足らずで闇夜の大脱出を成功させる。その際には島の人々の大いなる助けもあったといわれる。


三者三様の流刑地での島との関わり方。追い込められた日々の中で精いっぱいに生きた歴史上の人物たち。その人間模様に興味は尽きない。人生と歴史の縮図がこの島で繰り広げられたのである。

「一宮」から見下ろす知夫里のおだやかな海
「一宮」から見下ろす知夫里のおだやかな海

「一宮さん」から見下ろす参道は、真っすぐに青い海へとつながっていた。隠岐の島々も、もうすぐ夏が終わる。秋の風が旅の終わりを告げていた。