名捕手にして戦後初の3冠王、監督としても大きな名を残して2月、野村克也さんが逝った。

98年10月、阪神入団会見でユニホームに袖を通して笑顔を見せる監督の野村克也さん(中央)。左は久万オーナー、右は高田社長
98年10月、阪神入団会見でユニホームに袖を通して笑顔を見せる監督の野村克也さん(中央)。左は久万オーナー、右は高田社長

球界に輝かしい足跡を残した野村さんが生前、「俺の野球人生から抹消したい」「俺の評価を落としただけや」とボヤいた時代がある。1999年(平11)から3年間、指揮を執った阪神監督時代だ。

監督最終年となった01年7月30日。久万俊二郎オーナーと会談した際のメモが残っている。チームの成績低迷に加え、一部在阪スポーツ紙との関係は悪化し、抜き差しならない状況にあった。沙知代夫人の脱税疑惑の「Xデー」も近づいていて「野村退任は必至」と誰もが思っていた時期だ。メモには、関西経済界で重きをなす名オーナーと、名将の名をほしいままにする大監督が、腹蔵なく語り合うさまが、生々しく記録されている。

甲子園での横浜戦に敗れて3連敗の後、移動日となった月曜の昼下がり。大阪市内のシティーホテルで会談は始まった。

久万オーナーが、コーチ2人の名を挙げて、成績不振の一因はコーチ陣にあるのではないか、と迫る場面から、メモは書き起こす。野村さんは「コーチ陣は『指示待ち族』で、監督が言わないと動かない。しょっちゅう説教している」と応じる。久万オーナーが問い、野村さんが持論を述べる展開の会談は熱を帯び、激しい言い合いになっていく。

野村 球団幹部は「練習が足りない」と言う。

久万 キャンプの練習は短いですな。

野村 長ければいいというものではないです。メジャーリーグは2時間です。

久万 それなら好きにやればいい。

野村 ヤクルトでは、私のやり方で優勝しています。私が話そうとすると、オーナーがしゃべるから、私の話を聞いてもらえない。

「責任は、コーチを連れてきた私にある」と野村さんが言えば、オーナーも負けじと「給料を払っているのはこちらだ。それ(監督の責任)では済まない」と言い返す。

野村さんは日ごろから、選手、球団フロント、親会社のあり方、姿勢など直言していた。久万オーナーは「野村の言うことはいちいち腹が立つ。それが、もっともやから余計に…」と歯がみしていたという。そんな2人の間を同席した阪神電鉄本社幹部がとりなして、ようやく本題に戻った。

久万 来季も監督を続けて欲しい。

野村 実は、この前まで、続けていいか迷っていたんです。

久万 契約は1年、あるいは2年として継続していくことでどうか。

野村 1年で結構です。

互いにやり合って、すっきりしたのだろう。契約更新はあっさりと決まった。

久万 来年の条件は変える必要はないですね。

野村 ここまで来たら、もう金はいいです。10年ぐらい何とかなるでしょう。

年俸は現状維持で決着した。

メモの末尾、「その他野村監督の発言」として「阪神は野球をする環境は最悪だ。在阪スポーツ紙記者も球団OBも悪い」「今の選手は筋肉痛でも痛いと言い、自己診断できない」「(ベテラン選手の名を挙げ)辞めさせてもいい。体が動かず、本塁打も打てない」などなどが記されている。ぼやきとも提言ともいえる野村語録を久万オーナーは、どんな顔をして聞いていたのだろう。3時間に及ぶ会談が終わったのは、午後5時10分だった。

この年12月、野村阪神は3年連続の最下位に沈み、夫人の脱税事件を受けて、野村さんは退任した。久万オーナーは「野村が悪い」とは1度も言わなかったという。勝てないのは「野村野球」がチームに浸透せず、フロントが戦力補強を怠ってきたからだと、最後まで野村さんの力量を信じていたという。

当時を知る元球団幹部は「野村さんは、球団を変えてくれた。03年のリーグ優勝の土台を作ってくれた。感謝の気持ちは当時も今も変わらない」と話している。【秋山惣一郎】