左肩、左肘、そして腰。愛甲の体はボロボロだった。しかし、「痛い」とは言えない。当時はそんなムードだった。エースでも1年生。我慢して投げた。

 秋季神奈川大会では準々決勝で東海大相模に敗れ、翌春のセンバツ出場は絶望になった。その8日後の10月16日。長野開催の国体で天理に敗れた。愛甲は先発したが、初回に7失点するなど11安打10失点と散々だった。7-10で敗れた。

 愛甲 体中が痛くて痛くて、もう投げられる状態じゃなかった。でも、試合後に監督から「てんぐになっている」と、ものすごく怒られてね。この頃は本当につらかった。

 もう痛みは隠せなかった。国体の直後、監督の渡辺元から「どこか痛いのか」と問われ、ようやく故障を打ち明けた。渡辺は「しっかり治療しよう」と心配し、病院を紹介してくれた。だが、痛みはひどくなるばかりだった。

 愛甲 11月からは完全に投げられなくなった。もう野球はできないと思った。野球推薦で入学したんだから、野球をやめるなら学校もやめなければと考えていた。

 12月のある日。愛甲は、渡辺に「やめます」と告げて合宿所を飛び出し、生まれ育った逗子に戻った。母ユキエが待つ自宅にも帰りにくい。悪友たちと遊び歩いた。

 愛甲 夏の甲子園はうちの高校にとっても久々(15年ぶり)で、周りもウワーっと盛り上がっていた。1年で活躍したオレは、期待もねたみも受けていた。本当の自分とのギャップ、その上に野球ができない。もう何が何だか分からなくなっていたと思う。

 多感な16歳。当時の愛甲は、冷静な判断ができなくなっていた。

 愛甲 あまり言ってないけど、逗子海岸に行って「死のう」と思ったこともある。防波堤の先端まで歩いて行って…突然我に返って怖くなった。完全に自分が見えなくなっていたんだろうね。

 自宅に戻ると渡辺がいた。「体を治して出直せ」と説得された。

 渡辺 愛甲は寡黙というか、自分の胸の内を話さない。どこか陰があるタイプだった。何度も自宅へ行って話したが、彼の気持ちがつかめなかった。

 同じ時期、同級生の安西健二も野球部から離れていた。愛甲と共に1年生からレギュラーで、夏の甲子園では本塁打も放っている。彼もまた野球をやめようとしていた。

 安西 オレは国体後に内臓を悪くしたんですよ。肝臓の機能が低下して具合が悪くなった。監督に「休め」と言われ、自宅へ戻り病院へ通って治療していた。

 しばらく休んで体調は戻った。だが、そんな頃、教室で仲のいい同級生の野球部員に声をかけると無視された。安西が怒ると、同級生は「違うんだ。お前と話すと先輩に説教されるんだ」と打ち明けた。

 安西 冬のきついトレーニングをサボっていると思われたんだね。甲子園で活躍していい気になっていると。でも直接言うならともかく陰口なんて、そんなヤツらと野球できねえと、練習に行かなくなった。

 愛甲は故障、安西は体調不良で悩んでいた。だが、周囲には伝わらなかった。

 1年生から活躍したゆえの苦悩だった。チームを引っ張っていくべき2人が、グラウンドにいなくなった。愛甲が補導されたのは、そんな時だった。(敬称略=つづく)

【飯島智則】

(2017年5月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)