神港学園が大船渡に贈った色紙と両校の名前入りボール(撮影・堀まどか)
神港学園が大船渡に贈った色紙と両校の名前入りボール(撮影・堀まどか)

大船渡・佐々木朗希投手(3年)の岩手大会決勝登板回避を巡る論争が、今なお続いている。エースを登板させなかった監督の判断を、佐々木の体調を思えば当然、と評価する意見があれば、残念で仕方ない、投げさせるべきだったと言う人たちもいる。今年の高校野球は、佐々木を軸に回ってきたということなのだろう。

2年前「大船渡にものすごい投手がいる」という話を耳にして、あの学校が!? と懐かしく思い出した風景があった。

東日本大震災発生から2カ月後の11年5月、神港学園硬式野球部が被災した岩手のチームを神戸市の合宿所に招待した。阪神・淡路大震災から復興に向かう神戸の町を見せ「東北復興への希望になれば」という北原光広監督(当時、流通科学大監督)の考えだった。

「希望」とか「野球で勇気づける」という言葉のもろさを、北原監督は身に染みて知る人。神戸が大震災に見舞われた95年、神港学園は在校生2人を失った。硬式野球部OBの家族も亡くなった。不眠不休で被災者の救出作業にあたった末の悲劇だった。神港学園は同年の選抜大会出場が決まっていたが、野球で素晴らしいプレーを披露したからといって「亡くなった人が帰ってくるわけではない。町が元に戻るわけではない」と野球の意義を自問自答しながらも力をつくし、センバツ8強に進んだ。

大船渡を神戸に招待した夜、東北から戻ったばかりの神港学園OBの消防士が居合わせた。「命を救えるのなら、ぼくらはいくらでも頑張れる。でもご遺体を発見し、救えなかった命を見るたび、力が抜けていくんです。あと1秒でも早く動けていたらと思うと…」。疲れ果てた顔だった。命を救う側も心身の限界と向き合っているのだと、気付かされた。

それでも、心が温かくなる夜だった。バスで12時間をかけ、大船渡の部員は神戸にやってきた。すき焼きの鍋をともにつつくうち、両校の距離が近くなっていくのを感じた。翌日のボールを使った練習で、大船渡の部員は白い歯をこぼした。野球を通し、心がほぐれていったのだろう。その後も練習試合を行ったり、神港学園野球部員が復興への願いを書いた短冊を大船渡の七夕祭りに向けて贈るなど、さまざまな形で交流は続いた。

見知らぬ神戸にやってきて、食事、有馬の温泉、野球の練習と心づくしのもてなしにようやく笑顔を見せた大船渡の球児たち。あの野球部から、高校球史に残る投手は生まれたのかと、佐々木を巡るニュースを目にするたびに思い起こしていた。【遊軍=堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)

大船渡・佐々木朗希
大船渡・佐々木朗希