春はセンバツから。そんな風物詩が今年、初の中止となった。涙を流した選手たちも少なくない。何を思うのか、センバツに出場した経験がある元球児の友人に聞いてみた。

8年前、友人は東海地方の代表として、第84回大会に出場。ベンチメンバーの18人に入り、試合では投手として第一線で活躍した。当時を振り返って、まず言葉にしたのは周囲への「感謝」の気持ち。「親が保護者会長してたから、バスとかいろんな準備の時間とか手配とか何カ月も前からしてくれてて。すごい感謝した」。学校の同級生や教師にも尽きなかったという。「全校応援でアルプスから人文字作ってもらったんだけど、授業の合間に準備してもらってたみたいで。夏だと(県の)大会後の2週間しかないから、こんな準備もできんかったと思うとセンバツ出てよかったなって」。広い甲子園のグラウンドで、視線を横にすると見えた赤く染まったアルプス。ブラスバンドの名物応援。自分を支えてくれた景色は、大人になった今も、色あせずに記憶の中にある。大会は2回戦で敗退。痛感した周囲の支えは、夏の出場を目指すための原動力にもつながった。

野球人生も、変わった。センバツでのプレーが大学関係者の目に留まったこともあり、複数の大学から誘いを受けた。中から、関東の名門大学へ進学。神宮球場のマウンドにも立った。「センバツ出て、プレーしたおかげで入れたし、人生変わったと思う。出てなかったら地元の方の大学でやってたかも」。テレビ中継など多くのメディア露出のある全国大会は、野球関係者の目に留まることも多く、球児の進路にも関わることも否めない。

もし、自分の時に中止になっていたら…。「多分泣いてた」と苦笑いを浮かべるのも、本音の1つだ。高校球児の大半が、甲子園を目指し、2年半の時間で一身に野球に打ち込む。中には16歳で親元を離れる選手もいる。今春出場予定だった32校の選手たちの中にも多かっただろう。「目の前で夢が1つなくなったわけだし。みんなで話し合って、夏に向けて何するか話し合いしなきゃかな…。一人じゃ解決できない」。突きつけられた現実は重い。切り替えることだってままならないかもしれない。それでも、すこしずつでも前を向いていくことが、唯一の薬になるはずだ。

16日、今春のセンバツに出場予定だった明石商(兵庫)が5日ぶりに練習を再開した。当日の夕方、学校最寄り駅で、帰宅途中の明石商の部員を数人見かけた。腕の中には、デザインが新装された部活用のリュックや帽子があった。この日は本来なら、甲子園練習の予定日だった。なんだか切なくもなったが、すれ違う選手たちに笑顔があったことに、救われた気がした。【望月千草】