選手、関係者にもキツかった阪神の安芸秋季キャンプが終わった。長時間の練習が繰り広げられたこのキャンプ、MVPを指揮官・矢野燿大は「コーチ陣」とした。そこで思い浮かんだのは新しい打撃コーチ・井上一樹から聞いた話だ。

井上はキャンプ中、散歩を恒例にしていた。毎朝、球場の約5キロ手前でクルマを降ろしてもらい、歩いた。その途中、民家で飼われているイヌが気になった。

かわいいなと思ったので近づいて「よしよし」と声を掛けると「ウーッ」とうなられた。それにもかまわず、連日近づくと4日ほどでうなることはなくなった。

さらに同じ行動を続けると日を追うごとに動き回ったり、尻尾を振ったりと反応が変わってきた。さらに2週間が過ぎる頃には井上の顔を見ただけで地面にひっくり返り、おなかを見せて「ハフハフ」と喜ぶまでになったらしい。

「知らない家の飼い犬なんだけど、なんだかかわいくてね。ボクが一生懸命、近づいたら反応してくれたのはうれしかったなあ。まあ“こっち”は、なかなかそういうわけにはいかないでしょうけどねえ…」

「こっちは」と笑うのは、もちろん、仕事、つまり打撃指導だ。縁のなかった阪神に移り、面識もなかった若い選手たちを鍛える役回り。選手とイヌが違うのは当たり前だが、イヌを抱いているときもいろいろと思考を巡らしていた。

若者の指導は難しい。普通の勤め人ですらそうなのだから個人事業主の集まりである球界はさらにそうだろう。コーチが指導して「はいはい」と聞いていても、内心、「何か言ってるな」ぐらいの場合も多い。

そこへ来て、ライバル球団の経歴しかないコーチとなれば、さらに難しいかもしれない。それでも矢野は「井上しかいない」と依頼した。技術はもちろん、問題を乗り越える井上の人間力を知るからだ。

井上は自身を「コミュニケーション・モンスター」という。特徴的な外見と人見知りしない性格。少しでも接点を持つと、昔から仲が良かったような気分になる不思議な人物だ。

阪神ナインは他球団に比べ、おとなしいとされる。私もそう思う。それでも闘将・星野仙一のときは厳しく、明るかった。その流れをくむのが金本知憲、そして矢野だ。そこに中日で闘将の薫陶を受けた井上が加わった。新たな阪神に期待したいと思う。(敬称略)

19日、大山(右)を指導する井上打撃コーチ(撮影・上山淳一)
19日、大山(右)を指導する井上打撃コーチ(撮影・上山淳一)