全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第13弾は、嶋清一さんの登場です。嶋さんは海草中(和歌山)5年生だった1939年(昭14)夏に5試合連続完封。しかも、準決勝と決勝で2試合連続ノーヒットノーランを達成しました。しかし彼の人生は、悲しくも戦争に振り回されました。24歳の若さで戦死した伝説の名投手を、9回の連載でお届けします。

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海草中時代の嶋清一氏
海草中時代の嶋清一氏

 ◆嶋清一(しま・せいいち)1920年(大9)12月15日、和歌山市生まれ。雄(おの)尋常小学校、和歌山高等小学校を経て、35年に海草中入学。同年夏の第21回全国中等学校優勝野球大会初戦・松山商戦に8番一塁で出場。翌年から本格的に投手に転向。最終学年の5年の39年夏の甲子園で、準決勝と決勝で2試合連続無安打無得点試合を達成し、初優勝。40年に明大入学。43年に戦時学徒体育訓練要項で6大学野球連盟は解散。同年11月に結婚し、翌12月に学徒出陣で海軍・大竹海兵団へ。その後横須賀の通信隊、紀伊防備隊を経て44年12月に第84号海防艦に乗船。45年3月29日、シンガポールから門司への輸送船団を護衛中、ベトナム・カムラン湾沖で米軍の魚雷攻撃に遭い、24歳で戦死した。