89年、秋田高の3年生として最後の夏に挑んだあの時、ライバルだった金足農にはスーパー2年生がいた。金足農打線の中軸を担っていた中泉選手のはつらつとした動きが今も印象に残っている。長打力があり、足も速い。守っても肩が強く、秋田を代表する中堅手だった。三塁を守っていた私は、中泉選手の打球が強烈に速く、恐怖感を覚えた記憶が鮮明だ。

それでも、走者一塁の場面では、中泉選手でも例外なく送りバントのサインが出された。守る方はアウト1つ増えることに安堵(あんど)しながらも、確実に進塁されて重圧のかかる守備に神経をすり減らした。

◇  ◇  ◇

今年8月、試合後の勝利インタビューでぼくとつと言葉をつなぎ、武骨な顔つきで選手たちを褒めたたえる中泉一豊監督(45)は、100年の高校野球史に名を刻む指導者となった。

真面目で謙虚な男だった。下級生でベンチ入りしたことから、先輩の大きな荷物をいくつも肩に背負って球場入りしていた。敵だった私たちにも帽子を取って深々とあいさつができる選手だった。全力疾走、声をからしてチームを鼓舞する姿は、今の金足農の選手たちに通じるものがある。

金足農は昔からよく練習をするチームだった。練習試合はもちろん、公式戦で勝っても負けても、実戦の後に学校に帰って猛練習に励んでいた。夏の猛暑対策では蒸し暑いビニールハウスの中で鍛錬し、地元の秋田市追分地区では夜遅くまで金足農野球部の声が鳴りやまなかったと聞いた。

第1回の秋田中、そして100回大会の金足農。県民は、ひた向きに1点を取りにいく金足農に心を奪われながら、やればできると、これからの秋田の高校野球の可能性に、大きな希望を描いた夏だった。

(90年卒・秋田高野球部OB、文化社会部次長・山内崇章)