“雑草軍団”金足農(秋田)に定着した2つの代名詞が、強さの源だ。今夏の甲子園では「スクイズ」でコツコツ1点を積み重ねる堅実な野球を披露。近江(滋賀)との準々決勝で飛び出した2ランスクイズは、元監督の嶋崎久美氏(70)が温めていた秘策だった。またエース吉田輝星(3年)をはじめ、選手たちがピンチで口にしたのは「冬合宿」という言葉だった。86年1月に始まった「地獄の田沢湖合宿」を継承した「冬の校内合宿」を意味する。レジェンド監督に成り立ちを聞いた。【取材・構成=高橋洋平】

金足農のお家芸は度重なる敗戦から生まれた。嶋崎氏は81年と83年夏の秋田大会決勝で2度も敗れ、1点の重みを痛感した。秋田県は伝統的に好投手を輩出。ロースコアの試合を制するには、確実に決まるスクイズの開発が必要だった。そして「100%スクイズ」と呼ばれる秘策を編み出した。三塁走者、三塁コーチ、打者、次打者の4人の共同作業で成功率を上げた。

嶋崎氏 スクイズにこだわったのは1点の重みを痛感したから。三塁に走者がいても、ホームに生還するのは近いようで遠い。監督はスクイズのサインを出す時、勇気いるって言うでしょ。俺からすれば、ばか臭い話。外せば、走ってこないんだから。その駆け引きが今の監督たちには難しいんだろうね。

100%決めるには、相手投手のウエストを見破る必要があった。投手が外した瞬間、三塁コーチと次打者が大声で伝達。それを聞いた三塁走者は2通りの走路で帰塁する。右打者なら、左のバッターボックス側に外された球を捕手が三塁手に送球するため、捕手と三塁手を結ぶラインを邪魔するように三塁走者は反時計回りに帰塁。左打者なら逆になる。秘策が完成してからは、1死三塁が得点パターンとして定着した。

嶋崎氏 ストライクゾーンに投げてくれば、間違いなく決めればいいんだから。外すのを見極めるだけ。

「技術」を極めて「精神」を鍛錬した。雪の降る11月から1月まであえてバットとボールを触らせず、体づくりを徹底させた。86年1月には1週間ほどの「地獄の田沢湖合宿」を始めた。朝6時から雪明かりを頼りに長靴を履いて、真っ暗な外でランニング。その後は午前9時から3時間、午後1時半から4時間、体育館と雪山を交互に走って競争させ、午後8時に就寝した。中泉一豊監督(45)が15年に就任して「冬の校内合宿」に切り替えるまで続いた伝統行事だった。

嶋崎氏 甲子園に行くためには変わった練習をしないと。当時は何人も救急車で田沢湖病院に運ばれた。院長からは「倒れる前にやめなさい」と言われたけど「そんなヤワな考えじゃ、甲子園に行けない。究極までやらなきゃいけないんです」って言い返した。

究極の時間を乗り切った選手たちは肉体以上に精神的にも鍛えられた。98年の秋田大会決勝は秋田商に10点リードされながら、9回2死三塁から4点を奪って17-16で大逆転勝ちした。

嶋崎氏 究極の場面で「田沢湖」という言葉を俺が発すれば、選手が勝手に生き返ってくれる。98年の決勝は9回表の攻撃で円陣を組んだときに「田沢湖。田沢湖で何をやってきたんだ」。たったそれだけ。死に物狂いでやってきたから。

嶋崎氏が育んできた“カナノウ”のDNAが第100回の夏の甲子園で、大輪の花を咲かせた。

嶋崎氏 スクイズで取る1点は重みが違う。バントは犠牲心そのもの。これが社会に出てから役に立つ。自分が信念を持って信じてきた野球が、見直されてよかった。(おわり)

◆嶋崎久美(しまざき・ひさみ)1948年(昭23)4月5日、秋田・五城目町生まれ。次兄の嶋崎が中1の時に長兄を不慮の事故で亡くし、実家の農家を継ぐために金足農へ進学。現役時代は捕手で、甲子園出場はかなわなかった。67年3月に卒業後は一転して、秋田相互銀行(現北都銀行)に勤務。72年6月から母校監督に就任。1度退任を挟み計34年間で春夏7度の甲子園出場。12年から16年秋までノースアジア大(北東北)の監督も務めた。