全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」の第15弾は、池田(徳島)を率いた蔦文也さんです。01年に77歳で亡くなった蔦さんは「攻めダルマ」の異名をとりました。豪快な打撃のチームで82年夏と83年春を連覇するなど、甲子園の優勝3回。実は蔦さんの野球への取り組みは繊細さがあふれていたことを織り込み、山あいの町の県立高校野球部が全国区で戦った物語を全5回でお送りします。

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「攻めダルマ」と呼ばれた池田・蔦監督
「攻めダルマ」と呼ばれた池田・蔦監督

◆蔦文也(つた・ふみや)1923年(大12)8月28日、徳島県徳島市生まれ。徳島商で3度甲子園出場し、40年の春夏はエース。同志社大在籍中に学徒動員に伴い海軍へ。戦後同大を卒業。社会人野球を経て、50年にプロ野球の東急フライヤーズ(現日本ハム)に投手で入団したが1年で退団。51年に池田高の社会科教諭となり、翌年野球部監督就任。監督としての甲子園出場は春7回(優勝2回)、夏7回(同1回)で通算37勝は歴代8位タイ(17年夏終了時点)。01年4月28日、がんのため77歳で死去。