センバツの21世紀枠で帯広農が初めて選出された。日刊スポーツでは連載「帯農なつぞら旋風 育て人 支え人」と題し、野球部を築き、支えた人物を3回にわたって紹介する。2回目は就任5年目で初の甲子園に臨む前田康晴監督(43)。

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前田監督は甲子園出場までの道のりを振り返った。主将を務めた大麻高では全道大会に届かなかったが、「いつか野球に関わる仕事がしたかった」と思っていた。「動物が好き」という理由で進学した酪農学園大では家畜栄養学を学び、農業教員の資格を取った。

卒業後の初任地は帯広農も、野球部の監督になることはなく04年に倶知安農に転任した。同年10月に監督就任。郡部校の宿命で「まともに選手がそろうことはほとんどなかった」。10年秋、ついに部員が1年生1人となった。「もう無理か」と廃部を考えた時、倶知安東陵中3年の石山大志という投手が訪ねてきた。中学では3番手。部員減の高校でチャンスをつかもうとしていたが「うちに来ても2人じゃ野球はできないよ」と帰した。翌春、石山は8人の仲間を誘って入部。11年夏は10人で臨み、石山がエースで、夏7年ぶりの単独1勝を挙げた。

「弱いチームは練習しかないと、ひたすらやらせた。よしあしは分からないが、粘り強くなった。子どもたちの変化を、肌で感じた。倶知安農で指導することの難しさも、やりがいも学んだ」。16年に帯広農に戻ると、17年秋に監督として初の全道出場、そしてセンバツ切符。本気でぶつかれば子どもも本気になる。弱小チームの指導で得た経験が、聖地を引き寄せた。

現在は農業科学科教員として大豆、小豆などの栽培を指導する。「農作物も生徒も毎日見ること。毎日見ていると大きな違いは気付きにくい。でも日々の小さな変化を見つけられるかどうかで、その先の成長は大きく変わる」。繊細かつ心優しいまなざしを向けながら、選手の実りをアシストする。【永野高輔】

◆前田康晴(まえだ・やすはる)1976年(昭51)2月13日、由仁町生まれ。岩見沢幌向小4年時に幌向タイガースで野球を始める。岩見沢豊中から大麻に進み、1年秋から遊撃手でベンチ入り、3年時は主将。98年に酪農学園大を卒業し、99年に帯広農に赴任。1年目は馬術部顧問で2年目から野球部第3顧問。04年に倶知安農に転任し同年10月から野球部監督。16年4月に帯広農に戻り、同年秋から野球部監督。家族は妻と1男。