24日に亡くなった木内幸男氏が、常総学院(茨城)の監督として指揮を執った最後の夏を全試合取材していた。9年ぶりに当時の取材メモを見直すと、木内節が全開だった。改めて記しておく。

▼11年7月16日=2回戦=常総学院10-0水戸一(強攻策の連続で14安打を放って5回コールド勝ち。教え子の水戸一・竹内監督を下す)

木内監督(大勝に)「向こう(甲子園)で勝つには力をつけんといかん。何もやらんと決めていた。マジックで勝つ時代じゃない。力で勝てないと。切り替えた」

木内監督(12日に80歳の誕生日を迎えたばかりで)「70過ぎたら知らないふりをしてくれるのが親切だ。老いぼれた姿を見せちゃいかん」

▼同22日=3回戦=常総学院9-0中央(5回に3本塁打で7回コールド勝ち。選手を18人起用しながら大勝)

木内監督(大量起用に)「好調な人と不調な人を見極めている。誰を出しても負けない。肩が痛い人が出ても万全な態勢をとっている。(大会前から勇退を明言し)やめるにあたって、1、2年生を多く使って置き土産をしたい」

木内監督(背番号12の吉沢捕手をスタメン起用に)「(夏は)捕手が一番へばる。余力を残して大阪に行かないと」

木内監督(1年生の高島外野手を1番に起用)「じゃんけんも研究している。5人くらいやらせて、1年生の先頭打者に使った」

木内監督(茨城大会では12年ぶりとなる1イニング3本塁打に)「打って勝とうと。打つのが面白いので(選手が)勝手に伸びる」

▼同24日=4回戦=常総学院5-1守谷(土浦一、取手二時代と合わせて茨城大会で監督通算200勝) 木内監督(酷暑を見据えてエースを温存しながら2年ぶり8強)「使える選手と使えない選手が分かった。優勝するチームは一戦必勝じゃない。エースはデビューさせていないし。大会は明日から。消化試合で負けないのが重要」

木内監督(200勝に)「50年もやっている割には少ないな。思い出はたくさんありますけど」

▼同25日=準々決勝=常総学院5-2鹿島学園(三塁コーチを務めていた西山を代打に起用。西山は慌てて手袋とレガーズをつけて右前適時打と木内マジックがさく裂)

木内監督(左投手専用だった西山を右投手相手に突然代打起用し)「変な起用法ですが、勝負ですから。根性を買いました。背に腹は代えられない」

▼同27日=準決勝=藤代2-0常総学院(9安打も9残塁で完封負け)

木内監督(大会前の勇退判明に)「監督をやめるからと生徒にプレッシャーをかけ過ぎた。オレは言わなくても、マスコミから言われる。子供が硬くなって、打撃(の体)をなしてない。高校生にプレッシャーかけたらだめ」

木内監督(打撃不振だった主将を初戦以来の3番に抜ってきも3打数無安打)「子供らと話し合った。子供らが推した。相談するだけ年を取った」

木内監督(序盤に2併殺で逸機)「打って勝とうというチームづくり。力で勝てないと大阪では勝てない。夏は投手が仕上がる」

木内監督(勇退に)「年齢的にこれ以上無理。やっと解放された。ガハハ。甲子園行ったら(人寄せ)パンダになってた。いい人生を送らせてもらった」

木内監督(家族に)「家内、子供には迷惑かけた。家にいたら映画を見るより野球を見る。娘も家内も好きなテレビを見たことがない。今でも神奈川、千葉、土浦(のチャンネル)を回して『俺ならこうするな』なんて(高校野球中継を)見てた」

木内監督(木内マジックとは)「見てっから。観察力。こういう投手はこいつはこう打つ。左の食い込む球をこういう風に打つとか。欠点といいところを見ておく。覚えておく」

木内監督は教員ではなく、自らを「職業監督」と言い切っていた。「プロ(に進むことは)は東大より(難しい)。真実をしゃべらないと。『お前は(上のレベルでは)使いものになんねえ』と。下手な人はやめて勉強(しないと)。草野球は還暦まである」。とことんリアリストで、茨城弁で歯に衣(きぬ)着せぬ発言を連発していた。たくさんいる教え子に継承してもらいたい。【斎藤直樹】