釜石エース岩間、第一線離れるも夢は監督で甲子園

釜石の象徴「鋼鐵の意志」の前で色紙を持つ釜石・岩間(撮影・高橋洋平)

 みちのくを沸かせた高校球児たちが、次のステージへ羽ばたく。野球をやめる者もいれば、大学で飛躍を誓う者もいる。昨春のセンバツに21世紀枠で出場し、1勝を挙げた釜石(岩手)のエース岩間大投手(3年)は中大に進学する。痛む右肘と相談し、野球の第一線から離れることを決断した。

 激闘の記憶が、岩間の脳裏に今でも鮮明によみがえる。小豆島(香川)に勝った瞬間、思わずジャンプして喜びを爆発させた。

 岩間 うれしさのあまり、勝手に出た。18年間生きてきた中で、かけがえのない財産。今でもキラキラした思い出として、心の中に残っている。簡単にできない経験をさせていただいた。すごい存在です、甲子園は。

 母成子さん(当時44)は11年の東日本大震災の津波で流され、現在も行方不明だ。母への思いを表に出さず、右腕を黙々と振り続けた。岩間が背負っていたのは、母でも震災でもなく、勝利への渇望だった。

 岩間 負けず嫌いなので、自分はただ勝負に勝ちたいために投げていた。勝って、結果的に母が喜んでくれれば良かった。新聞には母の分まで背負って投げると書かれたりしたけど、そうやって取り上げられることは嫌だと感じなかった。勝ったことで喜んでくれた人がたくさんいたのは、うれしかった。

 聖地には戻れなかった。夏本番の2回戦。一関学院相手に延長13回で力尽き、岩間は人目をはばからず号泣した。敗戦当日、自校のグラウンドで撮った集合写真には、完全燃焼した岩間の顔が写っていた。

 岩間 もう1回、甲子園で投げるというのが自分の原動力だった。負けたのは悔しかったけど、野球をやってきた12年間の中で一番楽しかった試合。お盆に母へ手を合わせ、「見守ってくれてありがとう」って伝えた時に、走馬灯のように思い出したのは(一関)学院戦だった。

 やりきったからこその決断だ。痛む右肘は限界に達していた。指定校推薦で進学する中大では軟式野球サークルに入部予定だ。大学卒業後の夢も描いている。

 岩間 キャッチボールをやると、今も肘と肩が痛くなる。本気でやるのは高校で最後って決めていた。卒業後は高校教師になって、監督で甲子園に行きたい。実際に行ったことで、球児が甲子園を目指す理由が明確に分かった。行く前はパッとイメージできなかったけど、いざ行ってみると、輝いて見えた。言葉にするのは難しいけど、甲子園には夢がある。

 目指すのは恩師・佐々木偉彦(たけひこ)監督(32)の背中だ。言葉の力を信じて、チームの潜在能力を最大限に引き出してきた。小豆島戦の試合開始前には、佐々木監督からパソコン上で激励メッセージが流された。岩間に送られた「お前のおかげでここまで来れた。今日は何より楽しめ」に始まり、選手全18人に発信されたエールを見届けるうちに、岩間の涙が止まらなくなっていた。

 岩間 こみあげてくるものがあった。絶対やってやろうって思えた。偉彦先生の言葉は力が強くて、全員のベクトルが同じ方向に向く。言葉を使って奮い立たせてくれるのは頼もしかった。

 己を信じて強気に投げ続けてきた岩間だからこそ、教えられることがある。

 岩間 甲子園をきっかけに、やればできるということが分かった。できる、できないじゃなくて、やるか、やらないかでやり続ければ、いつかはできる時がくる。何事にもどんどん挑戦する気持ちを強く持って、今後も頑張っていきたい。【取材・構成=高橋洋平】

 ◆岩間大(いわま・だい)1998年(平10)5月31日、岩手・大槌町生まれ。赤浜小1年の時、安渡スポーツ少年団で野球を始め、小5から投手。大槌中では軟式野球部に所属し、釜石では2年秋から背番号1。171センチ、63キロ。右投げ右打ち。血液型O。