佐渡の怪腕・菊地「日本で一番レベル高いところで」

新チーム相手のシート打撃に登板する佐渡・菊地

 プロ予備軍たちに、集大成の日が迫ってきた。26日にプロ野球ドラフト会議が開催される。昨年は3人の新潟県人選手が指名され、中日4位の笠原祥太郎投手(22=新津-新潟医療福祉大)と巨人4位の池田駿投手(24=新潟明訓-専大-ヤマハ)が1年目から1軍で活躍した。今年も県人から高校・大学生合わせて4人がプロ志望届を提出するなど、「豊作」の期待がかかる。「新潟からプロの夢実れ!! 運命の日」と題し、ドラフト当日まで候補選手の横顔を紹介する。第1回は、最速146キロを誇る佐渡・菊地大稀(たいき)投手(3年)の前編です。

 離島で18年育った逸材が、島の歴史を変えようとしている。スカウトによる「菊地詣で」が、ようやく一段落した。髪もすっかり伸びた佐渡・菊地は「ドラフトは意識しないようにしています。それより今は、技術向上と体力づくりの方が先です」と浮かれることなく、後輩に交じって黙々と練習を続けている。

 9月12日の志望届提出を解禁に、指名候補リスト入りを意味する調査書が続々と届いた。調査書は、担当スカウトが候補選手の所属先まで、直接持参して手渡すのが慣例。この手続きだけのために、今月上旬までに7球団の関係者が佐渡に足を運んだ。過去にプロ野球選手を輩出したことがない島が、にわかに活気づく。

 前例のない挑戦にも、愚直なまでにプロ志望を一貫して変えなかった。

 菊地 夏の負けで自分の中に迷いが出ると思ったけど、プロ入りへの思いはまったく変わらなかった。プロ野球選手が夢だったし、やっぱり、日本で一番レベルの高いところで野球をやりたかった。

 中学時代に離島甲子園の出場歴はあっても、高校2年秋まで中央球界では無名に等しかった。今春県大会のベスト16が最高成績で、シードで臨んだ夏は初戦(2回戦)敗退。大会直前に右太もも裏を肉離れし、「初戦で負けるつもりはなかったので、気持ちの整理がつかなかった」と、不完全燃焼のまま高校野球を終えた。

 2年までは大学でのレベルアップを念頭に、漠然と進学を考えていた。母美佐子さん(50)も夏の結果を受けて、強く進学を勧めた1人。実際、大学側の勧誘は引く手あまたで、複数の東都の名門からスポーツ推薦で声を掛けられており、練習会に参加するとブルペン入りした際、エースの横で並んで投げる「特権」を与えられたこともある。それでも「目標と決めた以上、プロは変えたくなかった。高い目標を掲げたので、すぐに練習を始めました」と敗退から2日後には、下級生の新チームに交じって、夏休みもほぼ休まず体を動かした。

 宮木洋介監督(32)は進路相談で何度も話し合った。「僕は迷いました。大学の練習会に参加した反応を見ていたら、『大学を選ぶかな』という感触でしたが、途中からいちずでしたね」。夏休みの終わりに最終確認。「プロに行きたい」という意思を尊重し、志望届提出が決まった。

 実は、2年春の段階でプロから注目される存在だった。昨春県大会の日本文理戦。0-5で敗れたものの、日本文理の視察目的で訪れたあるスカウトが、直球で内角を詰まらせる長身右腕に大きな将来性を感じたという。「2年のときもそうでしたが、秋より春の方がいい」(宮木監督)という「春男」。今春は県大会初戦に10球団のスカウトが集結。東京学館新潟戦では公式戦初完投、続く北越戦では菊地も「高校でのベストピッチング」という初完封で、スカウト人気に火が付いた。

 菊地も「見に来てもらったことで、目指す目標がはっきり見えた」と、プロ入りは夢ではないと実感した。夏は10球団、うち6球団はスカウト部長クラスが直接、公式戦ラスト登板を視察した。技術的には、ほぼ我流でやってきた素材型。流れるようなフォームの源泉は、意外なものだった。(つづく)

【中島正好】

 ◆菊地大稀(きくち・たいき)1999年(平11)6月2日生まれ、佐渡市出身。小学1年から真野ファイターズで野球を始めてから投手一筋。真野中では佐渡市選抜のエースとして離島甲子園に出場。昨秋は北支部3回戦のコールド負け(対佐渡総合)の屈辱をバネに、一冬越えて球速が10キロ近くアップ。6月の練習試合で146キロをマークした。右投げ左打ち。小学校では野球と並行して地元の柔道場にも通い、黒帯初段の腕前。好物はチョコレートなどの甘いもの。右投げ左打ち。185センチ、81キロ。血液型O。