103年前の先輩超えて 第1回準V選手息子の思い

父貞さんとの思い出について語る信太聡一さん(撮影・三須一紀)

 全国高校野球選手権で快進撃中の公立の星、秋田県立金足(かなあし)農業が、県勢では第1回大会の1915年(大4)以来となる決勝進出を果たした。

 当時は大阪・豊中球場で行われ、秋田中(現秋田高)は京都二中(現鳥羽)に延長13回サヨナラ負け。秋田中ナインだった信太貞(しだ・さだか)さんの息子、聡一さん(84)が20日、秋田市内で取材に応じた。第1回の「東北初優勝」という忘れものを、秋田県勢が100回大会で取り戻しに行く構図に、不思議な縁を感じていた。

 1回大会の決勝の土を踏んだ父貞さんの墓前で、信太さんは手を合わせた。身長165センチほどの決して大きくない体で一塁手を務めた父は、103年後の地元の後輩が躍動する姿を、空から見ているだろうか。

 1897年(明30)に生まれた貞さんは、1948年(昭23)、51歳の若さで亡くなった。終戦の半年前、県北の阿仁地区にあった軍需工場に単身赴任し、胃腸を崩した。

 「料理も何もできないおやじだったから。母のもとを離れて大変だったと思う」。それでも終戦直後、阿仁の青少年を集めてノックなどの野球指導をしていた。体をこわしながらバットを振っていたのを聞き、診療所の医者は「戦争で栄養失調になった兵隊と同じぐらい、やせ細った腕でよくやるよ」と驚いたという。

 それぐらい野球を愛していた貞さんだが、「野球をやれ」とは1度も言わなかった。全国大会の話すらしなかった。45年暮れ、小学生だった信太さんが「野球をやりたい」と頼んだが、終戦直後で道具がない。貞さんは架空の少年野球チームの名前を書いて軟式球の配給を受けた。それで友人とキャッチボールができた。“ずる”だったが、子ども心にうれしかった。

 信太さんが秋田中2年生だった体育の授業中、先生から、決勝は一塁手のエラーで負けたと聞かされた。その直後、「それは信太のおやじだ」と声が上がった。叫んだのは決勝で捕手を務めた選手のおいだった。その事実を確かめることなく、貞さんは数週間後に亡くなった。野球の話を息子にしなかった理由なのかもしれない。

 信太さんは社会人となり、地元の新聞社「秋田魁新報社」に入社し、甲子園取材を9度経験。記者時代、「いつ東北勢は優勝できるのか」との特集も企画した。貞さんが成し得なかった全国制覇を、同じ地元の公立校が挑戦することに「それだけでも大ニュースだ」と縁を感じていた。

 あの決勝から3万7619日後に迎える100回大会の決勝戦。「大阪桐蔭とは野球部の構造が違う。あちらは投手のローテーションがあるが、金足農は9人で戦ってきた。それでも数の論理では測れない何かを、あの子たちはやってくれる」と信じる。「おやじもすごいが、今の子たちもすごい。さあ、103年前の先輩たちを超えて!」。1世紀分の思いを込めた。【三須一紀】

 ◆秋田中-京都二中VTR 1915年8月23日、1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ送球。一塁手の貞さんがお手玉し、その後、すぐに本塁へ転送するも、二塁走者のホームインに間に合わなかった。決勝点を許す失策は貞さんに記録された。