智弁和歌山高嶋監督と帝京前田監督の対談/15年

監督初優勝の本紙を手に「懐かしいなあ」と笑顔を見せる智弁和歌山・高嶋監督(左)と帝京・前田監督(撮影・田崎高広)

甲子園大会で歴代最多監督勝利数68勝を持つ智弁和歌山・高嶋仁監督(72)が25日、退任を発表した。日刊スポーツでは15年4月に高嶋監督と帝京・前田三夫監督(69)の対談を掲載した。その指導法や人柄をうかがい知ることができるこの対談の全文をあらためて掲載する。【取材・構成=堀まどか、前田祐輔】

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熱い高校野球の話が始まる。そんな期待感でいっぱいだった名将対談は、意外な幕開けをする。約1年半ぶりの再会。お互いの携帯電話を確認すると、ガラケーの65歳前田監督に対して、68歳の高嶋監督はスマホを使いこなしていた。「高嶋さん、すごいね~」と突っ込む前田監督に対して、高嶋監督が口火を切る。

高嶋 海外旅行に行ったときに便利ですよね。レストランのメニューとか分からないじゃないですか。

前田 海外旅行行くんですか。余裕ですね。余裕じゃないですか(笑い)。奥さま孝行ですか。はー。どこ行ったですか、最近は。

高嶋 オーロラを見に、カナダに。あとマチュピチュとかね。変わりますよ。マチュピチュ行った時は。もう野球なんてやってられないと思いましたよ。

前田 地球の反対側じゃないですか。そんな時間ありますか。さすが余裕が違いますね~。

もう20年来、旧知の仲の2人。あいさつ代わりに前田監督が“先制攻撃”すると、話題は、次第にあの試合にシフトする。

06年夏、準々決勝の智弁和歌山-帝京。まずは帝京が4点を追う9回表2死から、6連打で8点を奪って逆転した。この回、9番の主戦大田(現DeNA)に代打・沼田を送るも凡退。だが、2死一、二塁から4番中村(現ソフトバンク)が右前適時打を放つと、4連打で1点差、杉谷(現日本ハム)の2点適時打で逆転。さらにこの回2度目の打席に立った沼田が3ランを放ち、一挙8点を挙げて12-8と逆転した。甲子園は異常な興奮に包まれた。

9回表の開始前、帝京のベンチ前で起きた出来事を述懐した。

前田 もうあと3つアウト取られたら負けですから。僕は選手に問い掛けたんです。そうしたら「(代打)沼田行こう」と、そういう声が出ましたから。僕は迷わなかったですね。大田を下げると9回裏は(中堅手の)勝見というのが投げることになるんですけど、彼は2年生の時にエース番号をあげた選手。ピッチャー練習もさせてましたし、勝見で勝てると。100%裏付けはありましたけどね。100%の裏付けが、やっぱり、誤算でしたよね。

3年生になって公式戦登板がなかった帝京・勝見の制球は定まらない。逆に4点を追う智弁和歌山は9回裏、2四球後に橋本良平(元阪神)の3ランで1点差に迫った。

高嶋 前田監督がピッチャーを使い、代打を出し、ピッチャーを出し、最後ピッチャーおらんようになった。ここが誤算じゃなかったかと思うんですけどね。うちが勝つとすると、4点差を1回にひっくり返そうと思ったら、ランナーをためるしかないんですよね。打って、打ってためたんじゃなくて、フォアボールでためてくれたっていうのが大きかったですね。

前田 あのゲームというのはピッチャーがいなくなったと、皆さん言ってますけど、僕自身はあの8点で勝ちだと。監督としてベンチに入れば、監督同士の戦いがありますから。高嶋さんはベンチ前で仁王立ちしていますけど、僕は数えましたけど、2回崩れているんです。よーし、これで勝ったと。高嶋さんのあの姿を崩すのが、他の学校の1つの目標ですからね。ただ、勝負は甘くなかった。

帝京は8回までに3人の投手を使い果たしていた。甲子園史に残る熱戦をひもといても、投手がいなくなった事態は極めて異例だ。智弁和歌山は、攻撃の手を緩めなかった。

高嶋 9回に4番が3ラン打って、ノーアウト一、二塁になって、ホームラン2本打った馬場に回ったんです。勝とう思ったら、だいたいバントです。二、三塁にして外野フライで終わりという感じですが、馬場の今までのバッティング見たらバントさすわけにいかんですよね。負けてもええ、行け行けって。そしたらレフトフライだったんですね。あそこでバントして失敗していたら、多分負けていると思いますね。

前田 でもそれがひとつの流れであって、やっぱり負けっていうのは、ちょっと違うことやると、必ず負けるね。普段やってないことをね。

高嶋 8点取られて4点差付けられたので、気持ち的にはあきらめていましたけどね。帝京さんには悪いんですけど、あの時は田中のマー君をやっつけに出たんですよ、甲子園に。2年の秋、神宮大会で見て、真っすぐが150キロ、スライダーが139キロやったかな。これは練習せんと打てん。2カ月かかりましたけどね、スライダーにも何とかついていけるようになった。だから選手に言ったんです。お前ら負けたら、次マー君とできんやないかと。

両者が共にポイントに挙げたのは、智弁和歌山・橋本に3ランが出て1点差になった直後。四球で無死一塁となった場面だ。

前田 普通はね、なかなかヒットは出ないです。仕切り直しですから。ピッチャーも投げやすい。フォアボールを出した時点で、嫌な感じはしましたよね。

高嶋 ビデオを見返したんですけど、前田監督も何とも言えない顔してるんですよ。あの野郎って、顔しているんですよ。

その直後、帝京は遊撃の杉谷を登板させたが、初球に死球を与えて降板。さらに普段は打撃投手の岡野をマウンドに送るも、同点打を浴び、なおも1死満塁から押し出し四球を与えた。甲子園史上に残る試合は、13-12で智弁和歌山がサヨナラ勝ちした。

前田 もう何十年も監督してますけど、あの時の甲子園のなんて言うのかな、怒濤(どとう)のごとく沸き上がるね、うなりというものには、鳥肌が立ちましたよ。すごいゲームをしたんだって実感が湧きましたね。(帝京の地元)十条も、電気屋さんのテレビに、人がたまって交通もストップしちゃった。そういう話聞きましたよ。やっぱり、感動与えたんでしょうかね。喜んでくれて良かった。

高嶋 ああいうゲームって甲子園じゃないとできないんです。地方大会だったら、すんなり終わりですよね。甲子園っていうのは、すごいことができるところなんですね。

今でも色あせない激戦の余韻。次第に話題は2人が出会った約20年前の出来事や、時代とともに変化していく指導法、甲子園の戦い方に及んだ。

甲子園で白星を積み重ねてきた両監督。慣れ親しんだ甲子園での戦い方にも、独特の方法がある。

高嶋 選手には「お前らと1日でも長く甲子園にいたい」と言うだけ。頼むから1回戦は勝ってくれと。1つ勝つと、その間に夜出て行けるんですよね。

前田 どこへ行くんですか(笑い)。

高嶋 それは内緒ですけどね(笑い)。甲子園で選手と一緒に晩飯を食べたことは、ほとんどないです。うちのやり方は、宿舎で、起床と消灯はないんですよ。外出自由です。天国ですよね。昼寝OKで、1人1部屋で。ただ朝飯何時、晩飯何時と、これに遅れたら和歌山に帰らせるんです。

前田 強制はしないということですね。

高嶋 明日のこと考えたら、何時に寝なあかんというのは、自分で考えなさい。それが分からないんだったら、帰れと。今までで帰らせたのは1人だけなんですね。彼らは甲子園が決まると天国なんです。

普段の練習が厳しい分、甲子園では調整に充てる。選手を大人扱いするのも、勝利を積み重ねた1つの要因なのだろう。

前田 智弁和歌山は合宿所はあるんですか。

高嶋 寮も何にもありません。みんな通いです。

前田 うちも合宿所はないからね。

高嶋 大阪桐蔭の藤浪(現阪神)とかね、あれぐらいの選手は来ない。1学年10人で、県外は2人だけ。環境は悪いんです。でもよその学校とは違うハングリー精神は持ってますからね、その代わりに。

前田 やっぱりそういうものを植え付けさせないと、合宿所を持っている学校には勝てないだろうな。うちなんか、グラウンドをサッカーと共用していた時は、グラウンドを持っている学校には負けない、非常に強いものがありましたね。優勝したのもみんなその時期ですし。ハングリー精神を、今の子たちに持たせるというのも、どんどん難しくなってきているけどね。

高嶋 あまり恵まれた環境では強くならないんですよ。精神的なものが高校野球は大きいですからね。

移りゆく時代。野球界だけにとどまらず、スポーツ界全体に“愛のむち”があったかつての時代から、今は当然ながらすべての体罰が禁じられている。

前田 高校野球も時代とともに変化してますし。タイブレークだとかね。僕らの時代は、高嶋さんなんかの時代もそうだと思いますけど、スパルタ教育で、そのうち自主性が出てきて。今はゆとりだとか、変化が出てきている。その中で、同時に指導者も変わらんといかんし。それだけね、前よりも手がかかりますよ。指導者も、体力もいるし忍耐もいる。

高嶋 今の子は聞かないですから。態度がでかい。

前田 だからね、僕ははっきり言うんですよ。足元を見るなって。一番ずるいやり方だぞって。指導者には指導者の苦しさがある。お前らにはお前らの苦しさがあるから、お互い分かり合わないと、チームはできんぞって。足元を絶対に見るな。それはなんて言うかな、ずるい考えだ。スポーツマンはずるい考えは絶対ダメ。だから言って聞かせますよ今は。根気がいるね。時間かけてやらないと。

長い指導者生活。プロに行った数多くの選手たちの高校時代を見てきた。

高嶋 マー君はすごかった。星稜の小松(辰雄=元中日)も速かったですね。

前田 やっぱり松井(秀喜)はよく打った。僕は神宮大会で5打席中、4つ敬遠させたからね(笑い)。

高嶋 神宮で良かったですね(笑い)。

前田 最後ぐらい勝負せいって言ったらね、神宮第2で、二塁打打たれましたね。で、松井が次の年に、僕は帝京でも4打席敬遠されたって言ってたんですよ。ばか、いらんこと言わなくていいって(笑い)。

高嶋 甲子園でやってくれたら、(明徳義塾)馬淵さんもあんなに騒がれなくていいのに。

尽きることのない野球談議。互いに指導者になってから、40年以上の月日が流れている。

前田 最初は40人いたのが4人になって。1学年で150人ぐらい入った年もあったから。それを1人で束ねていたんだから。若いっていうのはすごいね。

高嶋 和歌山に移った時、部員50人が、僕行ったら3人になりましたね。僕の頭の中は、箕島を倒さないと、甲子園行けないですから、そのことだけ。でも彼らは同好会です。アップいくぞって、ポールからポール100本って言ったら、次の日また誰も来ません。

前田 高嶋さんは長崎海星か。外様だ。同じだ。やっぱり母校じゃないからね、責任あるね。僕なんか4人になった時は大変でしたよ。それこそ4人対サッカー部が200人ですから。1人休んで、僕がバッティングピッチャーやって、1人バッティング、キャッチャーやったら、外野守るのが1人しかいない。それでも、無我夢中でしたね。

互いに順風満帆ではないスタートから、実績を積み重ねて今がある。2人の出会いは約20年前だった。

前田 高嶋さんは智弁学園の時は、あんまり勝ってない印象がある。それが智弁和歌山で、急に勝ち出した。それで、遠征に行ったんです。高嶋さんには執念がありましたね。智弁学園では、ベンチで仁王立ちはしてませんでしたよね。

高嶋 やってません。

前田 智弁和歌山になってあのスタイルでしょ。何かあったんですよね。

高嶋 5回連続で負けたんですよ。甲子園の1回戦で。その時は座ってたんです。監督は目立たん方がええと思って。で、6回目出たときに、もう目立ってもええって。それで勝ったんですよ。それから座れんようになったんです。

前田 やっぱり勝てなかったのが1つの土台でしょうね。そこに原点があるんじゃないかな。負けるっていうのは大切ですね。

高嶋 負けがあるから、次の勝ちがあるんですよ。

「次の勝ち」を積み重ねて、高嶋監督は甲子園最多63勝に到達。それでも自分は「亀」と繰り返す。

高嶋 PL学園の中村(順司)さん(通算58勝)は、放っておいたら150勝ぐらい行ってましたよ。こっちは、ゆっくり、ゆっくり行っているだけですから。よう辞めてくれたな、って思いますよ(笑い)。

前田 高嶋さんは、もういいんじゃないですか。もう60勝しているんだから。

高嶋 いやいや。今辞めたら、前田監督が追い掛けてくる。虎視眈々(たんたん)と狙ってますから。

前田 いやいやいや、そこまで行きませんよ。それこそ亀ですよ。

◆高嶋仁(たかしま・ひとし)1946年(昭21)5月30日、長崎県生まれ。海星(長崎)で外野手として夏の甲子園2回出場。日体大卒業後、72年から智弁学園(奈良)監督、80年から智弁和歌山監督。春1回、夏2回甲子園優勝。主な教え子はヤクルト武内晋一、日本ハム西川遥輝ら。

◆前田三夫(まえだ・みつお)1949年(昭24)6月6日、千葉県生まれ。木更津中央(現木更津総合)では三塁手で、甲子園出場なし。帝京大卒業後に、帝京野球部監督に就任。春1回、夏2回甲子園優勝。主な教え子は元ヤクルト伊東昭光、ソフトバンク中村晃ら。

※年齢など掲載当時のもの