甲子園逃した悔しさこそ“雑草軍団”金足農の原点

84年夏甲子園準決勝の幻の号外を手にする元金足農監督の嶋崎氏(撮影・高橋洋平)

<レジェンド金足農元監督・嶋崎久美氏に聞く(前編)>

第100回全国高校野球選手権記念大会で金足農(秋田)が準優勝した。84年夏の全国4強をはじめ、春夏計7度の甲子園に導いた元監督の嶋崎久美氏(70)は、チームを率いる同校OB中泉一豊監督(45)の恩師に当たる。全国区となった“雑草軍団カナノウ”の成り立ちと原点を、レジェンド監督に前後編の2度に分けて聞いた。【取材・構成=高橋洋平】

“カナノウ旋風”を甲子園のアルプス席で見届けた嶋崎氏は、孫ほど年の離れた選手たちの躍動を目に焼き付けていた。

嶋崎氏 涙が出るくらいの感動だった。日替わりヒーローが出て、毎試合成長した姿を見せてくれた。農業高校として(戦後)初めて決勝に進出したし、秋田だけでなく、全国の公立校にも勇気を与えたと思います。選手を伸びやかに成長させてくれるのが“甲子園農場”ですね。

コンプレックスから始まった指導者人生だった。金足農を卒業後は銀行に勤務。母校の前任監督が配置転換のため野球部を去り、72年6月から監督に就任した。チームを強化するべく、東北6県内の甲子園常連校に練習試合の約束を取り付けようと奔走したが、就任当初は断られ続けた。

嶋崎氏 私の信念としては、強くするために甲子園常連校と練習試合がしたかった。当時、金足農は公立の無名校で実績もなく、技術的にも足りない選手が多かった。何とか強い高校と戦って、0-20で負けても勉強になると。同等のレベルの高校とやっても力にならないと思っていた。

それでも地道な強化は続け、熱血指導がついに花を開き始めた。就任10年目、81年春の東北大会準決勝。練習試合を断られ続けていた東北(宮城)を2-0で完封し、潮目が変わった。

嶋崎氏 エリート軍団の東北に勝ってから、有名校と練習試合ができるようになった。勝った翌日には新聞で“雑草軍団”と大きく報じられ、代名詞として定着した。ウチは農業高校。立派な除草剤をまいても、雑草は必ず青い芽を出してくる。それだけ雑草の力は強いということ。練習で鍛えて、踏まれても踏まれても、雑草のように強い子を育てようと。

同年夏の秋田大会は惜しくも決勝で敗退。試合に負けた日はすぐさま学校に戻って練習するなど、さらに指導の熱は増していった。84年は水沢-長谷川の強力バッテリーを軸に春のセンバツで甲子園初出場。夏の甲子園にも連続出場し、準決勝でKKコンビを擁するPL学園(大阪)に敗れたが4強に進出した。無名の農業校を一躍甲子園出場校に引き上げた指導のルーツは一体どこにあったのか。

嶋崎氏 高2の夏に、秋田代表決定戦の決勝で秋田高に2-3の1点差で負けたのがターニングポイント。そこで勝っていたら、監督なんてやってなかった。その年(65年)の甲子園は三池工(福岡)が初出場初優勝。監督は元巨人原辰徳氏の父、貢さんが率いていた。秋田高がその三池工に準決勝で負けたけど、全国ベスト4で騒がれて。1回戦で負けていたら踏ん切りついていたけど、夏の前に公式戦で2度勝っていた相手だったし、悔しかったね。

雪辱を誓った高3夏は主将を任され4番だったが、3回戦で秋田工に無安打無得点負け。在学中に聖地の土を踏むことはできなかった。高校時代に甲子園を逃した悔しさが、指導者としての原点だった。(つづく)

◆嶋崎久美(しまざき・ひさみ)1948年(昭23)4月5日、秋田・五城目町生まれ。次兄の嶋崎が中1の時に長兄を不慮の事故で亡くし、実家の農家を継ぐために金足農へ進学。現役時代は捕手で、甲子園出場はかなわなかった。67年3月に卒業後は一転して、秋田相互銀行(現北都銀行)に勤務。72年6月から母校監督に就任。1度退任を挟み計34年間で春夏7度の甲子園出場。12年から16年秋までノースアジア大(北東北)の監督も務めた。