「りしょうしゃ」から22年、あと1勝突き詰め頂点

初優勝を決めマウンドに駆け寄る履正社ナイン(撮影・上山淳一)

<全国高校野球選手権:履正社5-3星稜>◇22日◇決勝

組み合わせ抽選会で「大阪代表、履正社(りしょうしゃ)」と呼ばれた97年初出場から22年。岡田龍生監督(58)率いる履正社が、全国の頂点に立った。

あと1勝が届かなかった14、17年のセンバツを経て「どこかで優勝したいと思ってやってきた。『やるのは自分たちや』と生徒たちに話しながらここまで来ました」。万感を込め、初めて見る景色を眺めた。

東洋大姫路(兵庫)で主将、保健体育の教員を志して進学した日体大でも主将を務めた。社会人の鷺宮製作所を経て桜宮(大阪)のコーチになり、87年4月に履正社の監督に着任。当時は部員11人の小所帯だった。監督、部長を兼務し、激務の中で95年にはメニエール病にもなった。「監督は頼りにならんぞ、と言い聞かせていたら、選手に自主性が生まれました」。2年後、甲子園切符を初めて手にし、日生球場の一塁側ベンチで泣き続けた。

当時はエース小川仁(じん、当時3年)が1人で大阪7試合を投げ抜いた。今大会はエース清水大成(3年)に加え、2年の岩崎峻典が独り立ち。準決勝でしぶとい明石商(兵庫)を相手に、1失点完投した。準優勝に終わった過去2度のセンバツ後「あと1つ勝つ力」を突き詰めた。それが今大会の「岩崎でした」。6月から頭角を現し、あと1勝をつかむ戦力になってくれた。

数年前には左目が充血して思うように開かなくなり、サングラスが手放せないこともあった。すべての苦労が報われた瞬間。令和初の頂点に、岡田監督率いる履正社が立った。

◆岡田龍生(おかだ・たつお)1961年(昭36)5月18日、大阪市生まれ。東洋大姫路(兵庫)では正三塁手だった79年センバツで4強。日体大から社会人の鷺宮製作所を経て、85年から桜宮(大阪)のコーチを務め、87年春に履正社監督に着任。夏は97年、春は06年に甲子園初出場。14、17年とセンバツ準優勝。主な教え子はオリックスT-岡田、ヤクルト山田哲、阪神坂本ら。保健体育教諭。