八重山商工・金城長靖氏 社会人野球「正解でした」

八重山商工で活躍した金城さん。沖縄電力でプレーを続けている(沖縄電力野球部提供)

<あの球児は今>

甲子園を沸かせたスイッチの二刀流球児がいた。06年に春、夏と出場した八重山商工(沖縄)の金城長靖さん(31)。センバツでは左右両打席から本塁打を放ち、夏と合わせ5試合で計3本塁打。投げては最速145キロ右腕として、エース大嶺祐太投手(現ロッテ)に負けない活躍だった。プロにも注目されたが、自らの意思で社会人野球へ。沖縄電力で14年目を迎えた。

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勝利を引き寄せた。06年8月13日。松代(長野)との2回戦は、午後5時8分開始の第4試合だった。1回戦で千葉経大付に快勝した八重山商工の勢いは止まらない。2-0の5回、3番金城長の打球は、照明の光を切り裂くようにバックスクリーンへ飛び込んだ。3ランに一塁を回り、豪快にガッツポーズ。14年前を「前の2打席が四球で打ち気になってました。ボール気味だけど、振りにいったら入った、みたいな感じでしたね」と振り返った。

センバツでは左右両打席から本塁打。夏も1発を放ち、ドラフト候補に挙がった。だが「このままプロに行っても多分、ダメだろう」と自ら判断。プロ志望届は出さなかった。社会人でもまれ、3年後の指名を目指すことにした。駒大苫小牧・田中(現ヤンキース)早実・斎藤(現日本ハム)の存在が大きかった。甲子園後、日本代表に選ばれ、米国遠征で一緒に投げた。「プロには打者で行くつもりでしたが、打者目線で2人を見た時、今の僕のレベルじゃ打てないなと」。

社会人も甘くなかった。最初はついていけず、クビを覚悟した。「志望届を出しておけば」と思ったことも。ただ、20代半ばでプロを諦め、結婚、子宝にも恵まれた。「楽しもう」と力が抜け主力へと成長した。

午前中は顧客を回り、メーターの故障などに対応する。入社当初は「試合、見てたよ」と声をかけられた。6年ほど前から左打ちに専念。ベテランとなったが、一塁手として5番や6番を担う。改めて、高3秋の決断を「正解でした。一発勝負の社会人が合っている」と思う。3回出た都市対抗はいずれも初戦敗退。1勝、そして8強が目標だ。

高校の時、伊志嶺監督に「甲子園で活躍すれば人生が変わる」と言われた。「今も野球ができている。そういうことだと理解してます」。田中や斎藤のことは「ファンとして見てます」と笑うが、同世代の存在がやる気をくれる。島を沸かせた青年は、3児の父となった今も情熱を持ってバットを振る。【古川真弥】

◆金城長靖(きんじょう・ながやす)1988年(昭63)7月1日生まれ。沖縄・石垣市出身。八島マリンズ、八重山ポニーズのチームメートたちとともに八重山商工へ。高3の06年センバツは2回戦で横浜に惜敗。その横浜が優勝した。夏は3回戦で智弁和歌山に敗れた。沖縄電力では打者専念。171センチ、75キロ。右投げ左打ち。

<編集後記>

美しい-。記者になったばかりの私は、ただただ、そう思った。松代戦をバックネット裏で見ていた。日が落ち、外野の照明がまぶしかった。その光の中で、あの3ランが生まれた。糸を引くように、真っすぐな軌道がバックスクリーンまで描かれた。ああ、これが甲子園なんだ-。ゾクッとした。記者としての原風景に、あのホームランがある。そのことを、やっと金城さんに伝えられた。「ありがとうございます」。電話で表情は分からなかったが、うれしそうに答えてくれた。14年たっても、見た者の記憶に刻まれている。それぐらいの力が甲子園にはある。こちらこそ、ありがとうございます。