駒苫メガネの主将本間氏 レジェンド始球式で熱再燃

北海道のクラブチームTRANSYSの外野手兼打撃コーチとしてプレーを続けている本間さん(撮影・永野高輔)

<あの球児は今>

日刊スポーツの高校野球担当経験者が、懐かしい球児たちの現在の姿や当時を振り返る不定期連載「あの球児は今」。今回は、駒大苫小牧(北海道)の4番として05年夏の甲子園で優勝、06年は準優勝した本間篤史さん(31)です。亜大からJR北海道に入り、17年限りで1度、現役引退。昨年から北海道のクラブチームTRANSYSの外野手兼打撃コーチとして再出発している。

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マー君、佑ちゃん対決を引き立てた名脇役だった。駒大苫小牧で「メガネの主将」と親しまれた本間さんは、昨年から北海道のクラブチームの外野手兼打撃コーチとして奮闘している。新型コロナウイルス感染拡大で、目標とする全日本クラブ選手権などが軒並み中止に。全体練習は自粛中も、週末にチーム施設で自主トレーニングをしながら事態収束を待つ。「こんな状況でも、体を動かせる場所があるだけ恵まれています」。屈託ない笑顔は14年前と変わらない。

06年夏の甲子園、早実との決勝1試合目、1-1の延長15回表2死、早実エース斎藤佑樹(31=日本ハム)との対決は、140キロ台後半の直球を5球続けられた後のフォークに空振り三振。この裏、田中将大(31=ヤンキース)が無失点に抑え再試合が決まった。「最速147キロも出て盛り上がっていたし、ずっと直球だと思ってましたよ」と苦笑い。結局、斎藤には2戦で5三振。「高校野球最後の試合。1本、甲子園で本塁打を打ちたくて狙ってしまった。でも、打てなかったからこそ、大学や社会人までやれたと思う。欲を出したらいい結果は出ない。学びました」と振り返る。

亜大からJR北海道に入り17年限りで1度、現役引退。18年4月に退社した。北海道・日高町の自動車部品店で働いていたが、その夏、聖地から思わぬ“オファー”が届いた。100回記念大会「レジェンド始球式」の大役だった。「他の人はみんな有名な人ばかり。あそこで素の本間篤史を見せても印象に残らないし、僕らの世代を代表する2人に敬意を示したかった」。当時の田中風に振りかぶり、最後は斎藤のトレードマーク、青ハンカチで汗をふくパフォーマンスで締めた。ここで浴びた大歓声が、野球熱を再燃させた。

復帰後、平日は自動車部品店で働いて、自宅周辺で素振りや走り込み。クラブ施設を使う週末は、現在は短時間で感染予防に配慮し体力維持に努める。「将大と佑ちゃんが引退したら香田(誉士史)監督も呼んで、あの夏を再現してみたい。多分、佑ちゃんも40歳を過ぎてるだろうし打てるかと。今度は本塁打を打って自分が目立ちたい」。北の大地で日々鍛錬し“主役”となる日に備えている。【永野高輔】

◆本間篤史(ほんま・あつし)1988年(昭63)8月3日、北海道・余市町生まれ。余市沢町小4年で野球を始め、余市西中時代は余市シニアでプレー。駒大苫小牧では1年秋から背番号8をつけ、05年夏の甲子園で優勝、06年夏は準優勝。亜大から11年にJR北海道入り。都市対抗5回、日本選手権4回出場。12、16、17年に北海道社会人ベストナイン。178センチ、92キロ。右投げ右打ち。

<取材後記>

メガネ姿も笑顔も、甲子園のときと変わらず爽やかだったが、打撃フォームはだいぶ変わっていた。駒大苫小牧時代は、バットを長く持ち、高い構えから振り抜く長打狙いのイメージ。今は「短く持って、こんな感じです」と、違いを説明してもらった。手の位置は、あご下ぐらいまで下げ、体は投手に正対するような独特な構えになっていた。

亜大1年秋に左手首を骨折。4年春に復帰した際、中大の沢村拓一(現巨人)を打つために変えたのが、きっかけと言う。「柔軟に変えられるようになれたのも、甲子園で打てなかったから。いつか指導者として、あの舞台に戻れたら」。亜大では高校社会科の教員資格を取得。朗らかな性格で、教育者になっても人気者になりそうな雰囲気を感じた。