東日本大震災から今日11日で11年の月日が流れた。全国屈指の名門で昨春センバツ8強入りした仙台育英(宮城)須江航監督(38)は震災当時、系列の秀光中教校の教諭として勤務していた。あの日の出来事は今でも鮮明に記憶に残っている。野球部の寮生を親元に帰すため、仙台から新潟へ自らバスを運転し、片道9時間をかけて何度も往復するなど、地震発生から約2カ月に及ぶ激動の日々を明かした。被災地にある学校として、若き指揮官は教育者の立場でナインに毎年「3・11」を説く。【取材・構成=佐藤究】
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震災からまた1年、月日を重ねた。2011年3月11日午後2時46分。当時、須江監督は秀光中教校の教員で多賀城校舎の職員室にいた。「これは、大変なことだと思いました」。突如として襲った今まで経験したことがない激しい揺れ。宮城県内で最大震度「7」を観測。今でも鮮明に覚えている。「本当に揺れました。2分、3分どころではなかったです。ずっと揺れている感じでした」。窓ガラスは破損し、校内は散乱。同校の宮城野校舎は全壊と大きな被害を受けた。
想像をはるかに超えた現実を目の当たりにした。地震発生後。ラジオから流れた「仙台港に12メートル以上の津波がくる」というアナウンス。須江監督は当時を振り返る。「具体的には誰もイメージできなかったです」。仙台港から同校までは直線距離で約3キロ。津波は届くのか? という懸念が広がる中、生徒らを校舎3階へと避難させた。「正確には覚えていないですけど、地震発生から1時間以内。学校の門に水が流れてきました。水道管が破裂したのかと思っていたら、魚が流れてきて、津波だとわかりました」。あまりにも非現実的な光景に、あらためて事の重大さを痛感した。午後4時過ぎには、ニュースで津波による被害の大きさを知った。「教員としての防災教育は受けてきましたけど、津波による被害のイメージがあまりできていなかったです。(震災)当時はパニックでした」。
地震の翌日から多くの困難に直面した。生徒約650人と教職員らが校舎内で一晩、二晩を過ごした。ライフラインは遮断され、食料不足にも陥った。親と連絡が取れない生徒もいた。「メンタル面でのケアにとても気を使いました。複雑な心境の子どもたちがたくさんいたので言葉選びがとても慎重でした」。
「もう同じようなことは2度とできないと思います」。須江監督がこう振り返ることがある。自宅へ寮生を帰すためにスクールバスに約40人の生徒を乗せて仙台から新潟を何度も往復した。仙台からの交通機関の復旧のめどは立っておらず、新潟から飛行機や上越新幹線、バスで親元へと戻す選択だった。本来であれば、新潟までは高速道路を使えば、福島経由で片道約4時間だが、当時は原発事故の影響もあり、山形経由の下道で約9時間を要した。「1日(新潟に)行って(仙台に)帰ってきて(その翌日は)寝て、次の日にまた行く。2週間くらい続けたと思います。3月中にほとんどの寮生が帰ることができました。睡魔とかは一切なくて、とにかくやるしかない状況でした」。
人の温かさ、優しさに触れた。寮生を新潟に送り、仙台に向かう帰路の途中、新潟のスーパーに買い出しに行った。駐車場に止まる「仙台育英バス」を見つけた新潟県民が、たくさんの救援物資を渡してくれた。手作りのおにぎりをはじめ日常での必需品や毛布など…。「これも、これも持っていきな」。人ごとだと捉える人はいなかった。須江監督は「すごい量の数をいただきました。個人的に新潟県民の方に恩返しをしないといけない」と感謝の言葉を口にした。
あの日から11年がたち、自身の立場にも大きな変化があった。18年1月からは高校野球の指導者となり、選手の人間的な部分の成長を促し、「東北勢悲願の大旗白河越え」の大きな使命を胸に日々奮闘している。
毎年、ナインには「3・11」を説く。チームには東北出身の選手も多いが、関西、関東など全国各地から強い覚悟を持って「甲子園常連校」を選んだ選手も少なくない。須江監督は「県外の生徒も多いので、(震災を)伝えていかないといけないです。3月11日は、リアルタイムで話します。しかし、とても恐ろしい記憶として残っている生徒もいます。フラッシュバックさせるわけにいかないので、言葉はとても慎重に選びます」。今日11日は、須江監督は生徒らとともに甚大な被害を受けた宮城・南三陸町を訪れる。
被災地を所在地とする高校である以上、震災を風化させないためにも、これからも事実を伝えていく。