元横浜監督の名将渡辺元智氏「目に見えないモノに負けた」大阪桐蔭の敗退語る/甲子園総括・前編

22年8月18日、全国高校野球 下関国際対大阪桐蔭 7回裏大阪桐蔭無死一、二塁、大前(手前)の投飛で三重殺を完成させる二塁手森(左から2人目)

<深掘り。>

夏の甲子園大会は仙台育英(宮城)の初優勝で幕を閉じた。5度の甲子園優勝を誇る横浜の元監督、渡辺元智氏(77)が企画「深掘り。」で大会を総括。

前編は秋春夏3連覇に挑んだ大阪桐蔭が下関国際(山口)に敗れた準々決勝をピックアップ。98年夏、松坂大輔を擁してその偉業を達成した同氏が「名将の目」で、西谷浩一監督(52)率いる常勝軍団の敗退を語る。【聞き手=酒井俊作、保坂恭子】

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準々決勝の大阪桐蔭対下関国際戦に、高校野球の神髄を見ました。勝った者が強い。強い者が勝つのではありません。下関国際も試合前までは胸を借りる意識があったかもしれません。でも始まれば「絶対に勝ちたい」感情になったはず。勝とうと思わなければ絶対に勝てない。下関国際に敬意を表したい。

いま、一番しっかりした野球をするのは大阪桐蔭です。守備を見れば分かります。カバリング、連係プレーのカットマンの動き。クロスプレーなら送球し、間に合わなければ投げない。無駄な進塁を許さない。こういう点を徹底している。西谷監督は、すべてが完璧なチームを目指したと思います。だが、ゆえに、18日はちょっとした一瞬のスキを突かれてしまった。ボクシングでいえばカウンターパンチ。一発で倒された。

象徴的だったのは1点リードの7回無死一、二塁での三重殺です。普通なら考えられないし、そういう作戦はしないものです。だけど、偶然はない。奇策に映りますが、西谷監督は感性の強いモノを持っている方です。三塁に走者を置いてエンドランをかけたりもする。今回も、ひらめきがあったから、バントエンドランの形を取ったと推察しています。西谷監督も勝ちたい気持ちが強く、一瞬、勝てる、勝つんだと、自分が動いてしまった。監督にも目に見えない、何か揺れ動きがあったのではないか。

主将の星子君も一生懸命やって、調子も悪くない、でも何か分からないモノに負けたようなことを言っていました。こういうチームが負けるときは技術以外の何かがある。大阪桐蔭は秋春夏3連覇を狙う立場で、西谷監督も目標を公言されていた。相当のプレッシャーがあったはず。でも、いくらやっても高校生です。高いてっぺんを狙うほど、ちょっとしたミスが響く。

私が98年、松坂たちと夏の甲子園を優勝したときも世界最高峰のチョモランマに例えていた。1つ、踏み場を間違えたら死を意味する。選手を優勝させたい、俺も優勝したい。完璧にやっているけれど、どこかに間違いがないか。普段と違うことがあれば叱咤(しった)する材料を探していました。松坂を叱ったことがあります。大会の練習時、ロジンバッグで汚れた手で、氷をつかんで口に放り込んでいた。「飲むなと言ってない。汚い手で氷をつかむ。お前はそこに気づかないのか。お前1人の体じゃない」。わずかな気の緩みも許されないものです。

当時、私は53歳でした。日本一、厳しい練習をやってきた。でも、甲子園でなかなか勝てず、自分自身が変わらないと選手も変わらないと感じていた。京都の知恩院、清凉寺…。寺院に通い、教えを乞うた。異業種の会にも参加して、野球に結びつけようと考えていました。実は秋春夏3連覇を達成前の98年1月、座禅を組みに松坂らを群馬に連れて行きました。気分転換にスキーもやらせました。

若い頃は「勝ちたい、勝ちたい」だった私も、指導者は野球にガツガツしていたら、自分にゆとりがなくなって、見えなくなると気づきました。西谷監督は、すべてに我々を通り過ぎて別格の存在です。彼なりに苦心し、周囲の重圧もあって、それでも極めようとしているなか、少し疲れが出ているようにも映ります。あの試合には、ちょっとしたひずみが表れていたと思う。自分を振り返れる心持ちというか、何か頭を休めるものがあってもいいんじゃないか。誰もが認める名監督だからこそ、そういう段階に来ていると感じています。

▼大阪桐蔭悪夢の敗退VTR 8月18日の準々決勝・下関国際戦は1回に2点先制。追いつかれながら6回に1点勝ち越した。暗転したのは7回だ。無死一、二塁で打者は大前。2ボールからの3球目、西谷監督は送りバントではなくバントエンドランを選択した。だが、投手仲井への飛球アウト。送球は投手→二塁→一塁にわたり、飛び出していた走者は戻れずアウト。三重殺を食らった。1点リードの9回は場内が下関国際を後押しする手拍子。異様なムードのなか、前田が踏ん張れず、3安打を浴びて逆転され、敗れ去った。西谷監督も「うまく勝ちに結びつけられない監督の責任」と敗戦を背負った。

◆渡辺元智(わたなべ・もとのり)1944年(昭19)11月3日、神奈川県生まれ。横浜高では中堅手。神奈川大から65年に母校コーチを務め、68年に監督就任。73年春に甲子園初出場初優勝。夏は80年に初優勝した。98年は甲子園春夏連覇し、明治神宮大会、国体も制して4冠達成。公式戦44連勝した。甲子園は春夏27度出場して5度優勝、歴代5位の51勝。15年夏の神奈川大会を最後に勇退した。