<センバツ高校野球:中央学院7-1耐久>◇20日◇1回戦
聖地での完投は、ならなかった。昨秋全9試合を投げ抜いた創立170年超の伝統校・耐久のエース冷水(しみず)孝輔(3年)は、7回13被安打7失点(自責4)で降板。7回2死一、二塁の打席で、利き手の右肘に死球を受けた。痛みに顔をゆがめながら治療に向かい、臨時代走が送られた。その裏、スタンドからの拍手に迎えられてマウンドに戻ったが追加点を奪われ、8回から川合晶翔(まさと)捕手(3年)と交代。試合後は「自分はエースですし最後までマウンドに立って投げたかったので、少し悔しい思いもあります」と吐露した。
海南市下津町で、親戚らと共同で代々みかん農家を営む家で育った。早朝から家業に励む両親に合わせ、毎朝5時に起床。みかんの農園を“山”と呼び、幼いころは山をぐるぐる駆け回って遊んだ。仕事で忙しい両親も、ずっと冷水を応援。「ちょっとでも時間あったら、自主練しよう、ご飯をしっかり食べよう」と声をかけてくれた。小学生のころは1食1合の白飯を食べ「多かったら一度に10個ぐらいはみかんを食べました」とすくすく育った。
高校入学後は、腹筋や背筋を鍛え、幼いころからの走り込みは「体幹をしっかりする面でも」と継続。体力を強化した。
憧れの存在は、同校OBで3歳年上の兄秀輔さん(中部学院大)。長兄の影響で野球を始めた。「選手として目標にやっていました。ずっと兄の背中を追いかけてきた。兄は秋に大学の神宮大会に出たので、自分も全国大会のマウンドに立って投げたい」。自身も聖地のマウンドで腕を振り続けた裏に、特別な思いがあった。
みかんの出荷作業の時期と重なり、母公美さんは長男の登板を見届けることはできなかった。「正直不思議な感じで、実感があるようでないような。だんだん試合しているんだなって」と母は次男の冷水の登板を見つめた。「背番号をもらうからにはその責任や役目をしっかり果たしてほしい。みんなに信頼される“1番”になってほしい」と願いながら。
ペリー来航の1年前、1852年(嘉永5)に人材養成の稽古場(寺子屋)「耐久社」として創設。野球部は創部120年目。津波で被災後の1866年(慶応2)に「未来永劫(えいごう)続くように」と校名は「耐久社」となった。2世紀に迫ろうかという長い学校史に、初めて「甲子園」という章を作った。冷水は「少しは名前を残せるかなと思ったので、楽しく今日は投げることができました」。最後まで守れなかったマウンドに思いを残しながら、夏に目を向けた。【中島麗】
◆冷水孝輔(しみず・こうすけ)2006年(平18)7月30日生まれ、和歌山県海南市出身。加茂川小1年から加茂仲良しクラブで野球を始める。下津第二中では有田シニアでプレー。高校では1年春から背番号20でベンチ入りし、1年秋からエース。今夏の和歌山大会は初戦敗退。175センチ、78キロ。右投げ右打ち。
◆耐久 1852年(嘉永5年)に人材養成の稽古場「耐久社」として創立の県立校。野球部は1905年(明38)創部。夏は和歌山大会4強が最高。春夏とも甲子園出場なし。主な野球部OBに元阪神で虎風荘寮長も務めた梅本正之ら。バドミントン部は強豪。和歌山県有田郡湯浅町湯浅1985。戸川しをり校長。