甲子園が8月1日に開場100周年を迎える。その過程には使用が危ぶまれる深刻な危機もあった。阪神・淡路大震災が起きた1995年1月17日、関係者たちはどのような思いで聖地に駆けつけたのか。当日の球場を知る堀まどか記者の目を通し、甲子園を支える人々の力に迫った。
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あの冬の甲子園に、奇跡を見た。
「甲子園に行ってくれ!」。電話越しに虎番キャップの悲痛な声を聞いたのは1995年1月17日。その朝、阪神・淡路大震災が起きた。大戦を除けば、おそらく甲子園が最大の危機にひんした日だった。
大阪市内でタクシーをつかまえ、行き先を告げると「帰りは大変ですよ」と心配された。甲子園に近づくにつれ、朝からテレビが伝える映像が目の前に広がっていった。鉄塔も、冬枯れのツタに覆われた外壁も、もう見ることはないのでは…。頭に浮かぶ景色は、暗いものばかりだった。
だが、外壁はあった。鉄塔も、冬空にそびえ立っていた。見慣れた光景がそこにあった。信じられないような思いで球場に入った。
ただ、グラウンドに出て、異変に気づいた。泥水が噴き出す液状化現象が起きていた。アルプス席は大きくひび割れていた。余震で何度も揺れた。球場が悲鳴をあげていた。
2月に阪神からアマ野球担当に変わる予定だった。初仕事はセンバツとなるはずだったが、大会開催など無理だと感じながら屋内に戻った。すると、どてら姿の日本高野連・田名部和裕事務局長(当時)が駆け込んできた。グラウンドに走り、戻ってきた時、事務局長は泣いていた。
「良かった、良かった…。甲子園が無事やった…」
「無事じゃないです。あちこち、ひび割れて」
「君は、誰や?」
「日刊スポーツの堀です。来月から担当します」
「そうか。牧野会長もご無事や。甲子園も無事やった。ありがとう」
「いや、無事じゃないんですよ」
こちらの言葉には耳を貸さず、事務局長はミニバイクで去っていった。
阪神競馬場近くにある西宮市内の田名部家も被災していた。午前5時46分に飛び起きた時、隕石(いんせき)落下かと感じたという。近所で助け合い、ケガ人を病院へ。そこから日本高野連の牧野直隆会長(当時)の無事を確認し、甲子園へ急いだ。傾いた高速道路にがくぜんとした。
「3年は、大会は無理や…」。覚悟しながら球場の無事を祈った。甲子園から2駅の今津駅近辺で鉄塔が見えた。球場前で警備員が「大丈夫ですよ」と声をかけてきた。一目散に一塁側ベンチに走った。左中間席後方に湧き立つ白雲が見えた。真夏の入道雲を思わせる景色に「必ずいつか野球はできる」と確信した。
その時に感じた「いつか、できる」を、周囲への配慮、工夫を重ねて「今年、できる」に変化させた。自身も被災者であり、分かりすぎることがあった。家族や友人を失い、日々の暮らしをなくした被災者にセンバツは歓迎されるのか。一方で「もう悲しいニュースは見たくない。起きて仕事に行く。普通の生活が懐かしい」という被災地の新たな思いにも気付いていた。
背中を押したのは兵庫県庁で対面した貝原俊民知事(当時)の「桜の花が咲く頃には、被災地にも、明るいニュースが必要でしょう」の言葉だった。答えをもらった気がした。困難に立ち向かう支えになった。
取材する側も一言一句に神経を使った。行き詰まる度、思い出す光景が記者にもあった。1月17日、甲子園の阪神球団事務所ものぞいた。大型テレビが倒れ、物が散乱する室内を球団職員が片付けていた。球場近くに住む職員が、自宅の片付けもそこそこに駆けつけていた。プロだな、と思った。
球場は修復され、田名部らは何度も話し合いを重ねて被災地の理解を求めた。第67回選抜大会は4月5日、観音寺中央(香川)の優勝で閉幕。甲子園は不死身だと思えた日だった。【堀まどか】(敬称略)