田沢純一、新たな挑戦「直メジャー」10年を語る

08年9月、記者会見する田沢(左)。右は大久保監督

 10年前、22歳の青年の決断が日本球界を揺り動かした。08年9月11日、社会人NO・1右腕だった新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)田沢純一投手(32=タイガース)が、日本球界を経ずに直接大リーグに挑戦する「直メジャー」を表明し、レッドソックスと3年契約を交わした。日本のドラフト1位候補の海外流出は初めてで、大リーグではセットアッパーの地位を築いた。田沢が新天地タイガースに移籍し、エンゼルス大谷の二刀流が注目される今、「田沢問題」と称された当時から10年間の挑戦を検証する。【取材・構成=四竃衛、柏原誠、前田祐輔】

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 社会人野球の祭典、都市対抗野球が行われていた真夏の東京ドームは、例年にない異様な光景が広がっていた。ネット裏には、大柄な米国人スカウトが大挙して集結。08年9月、田沢が「直メジャー」を目指す意向を固めたことが明らかになった直後から、大リーグのスカウト活動はさらに熱気を帯びた。

 日本のドラフト1位候補が、NPB球団を経ずに直接大リーグ入りした例は、田沢以前も、その後もない。西武菊池、エンゼルス大谷が花巻東(岩手)3年時に「直メジャー」の希望を持っていたが、実現はしなかった。田沢が唯一無二の存在だ。

 日本のアマ選手を大リーグのベンチ入り可能な40人枠に登録する前例のないメジャー契約で、レッドソックス入りした。13年にはクローザー上原(現巨人)につなぐセットアッパーとしてワールドチャンピオンに輝いた。昨年まで5年連続50試合以上に登板。マーリンズではイチローとプレーし、今季は不振で5月に戦力外になったが、4日(日本時間5日)にタイガースとマイナー契約を交わした。

 田沢 (10年は)あまり気にはしていないです。あの時点で、こんなにできると思ってこっちに来たわけではないんでね。まずは、3年契約で来たところが、ここまで野球ができている。僕が仮に日本を選んでいたとすれば、イチローさんとは一緒に野球ができなかったかもしれないですから。本当に貴重な経験をさせていただいたと思っています。

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 田沢は大リーグ通算21勝26敗89ホールドの成績を残す。3年総額330万ドル(当時約3億1400万円)で海を渡り、今季までの総年俸は2368万5000ドル(約26億535万円)になった。同じ08年の国内ドラフト組では、ソフトバンク摂津が総年俸26億3700万円、西武浅村は同7億750万円(ともに推定)。当時の新日本石油ENEOS監督、大久保秀昭(48=現慶大監督)は「大谷君とかダルビッシュ君、田中君とか日本のスーパースターに比べたら地味ですけど、本当に着々と、向こうで地位を築いたと思います。アメリカンドリームですね」と言う。

 田沢が大リーグ入りした3年総額3億1400万円の契約は、日本のドラフト1位選手の上限、契約金1億円+出来高5000万円に3年間の年俸を合わせれば、極端に高くはない。大リーグ挑戦を選択した要因について、大久保は「彼を支えているのは、もっとうまくなりたい、成長したい気持ちだけ。自分を一番成長させてくれるイメージができたのがレッドソックスだった」と振り返る。

 大リーグ10球団が獲得に興味を示し、4球団から条件提示を受けた。金額だけならマリナーズの提示額が最も高かったが、レッドソックスの育成プログラムにひかれた。即戦力と期待される日本と違い、2Aからスタートして経験を積む育成法。日本の球団を経れば海外FA権取得まで9年が必要だが、伸び盛りの時期を大リーグで過ごし、着実に成長した。日本球界を経ていたらと想像することあるのか。

 田沢 それはないですね。それを考えていたらキリがない。自分がルールを作ってしまったことに関しては、ちょっと残念という気持ちはありますけど。自分が選んだ道に関しては、まだ終わったわけではないですけど、1日1日を大事にしながらプレーして、いい現役生活を送れればいいと思っています。

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 田沢が「作ってしまった」と言う、通称「田沢ルール」。08年9月に大リーグ挑戦を表明し、12球団に同年のドラフト指名回避をお願いする文書を送付すると、球界は大混乱した。日本野球機構(NPB)は同10月の実行委員会で「アマチュア選手が日本のドラフトを拒否して海外でプレーした場合、その選手が日本に帰国しても高校生は3年、大学・社会人は2年は獲得しない」と決めた。

 NPB側とすれば、ドラフトの目玉候補が毎年、田沢のように直接大リーグを目指せば、日本球界は空洞化の危機になる。互いのドラフトを尊重するという日米間の「紳士協定」のあいまいさ、選手の職業選択の自由…。そんな議論が活発化した時代だった。

 ただこの「田沢ルール」は田沢の大リーグ挑戦表明後にできたもので、田沢自身に適用されるかは議論の余地がある。日本のプロ野球を経験していない田沢がNPB球団と契約するには、アマ選手と同様にドラフト会議での指名が必要になる。当時の「田沢ルール」は実行委員会の議事録には記載されているが、野球協約には明記されていない。つまり明確に制度化されていないため、取り扱いは再び12球団で協議される見通し。今年のドラフト会議は10月25日なので、今季中の契約はできないが、その後は2年間経過しなくてもNPB球団と契約できる可能性は残されている。

 昨春のWBCでは侍ジャパン招集も検討され、今後はNPB球団からオファーを受ける可能性もある。田沢は近い将来、日本でプレーする考えはあるのか。大久保は「全然ないと思います。行く時に、アメリカでダメになったから、日本に帰って来るとかは考えてなかった。『僕がやるのは許されないでしょ』ぐらいの感覚を本人は持っているかもしれない」と、退路を断った挑戦だった。だから、5月にマーリンズを戦力外になった直後、田沢から連絡を受けると「3年後ぐらいにENEOSで投手コーチだなって。やれるだけやれって連絡しました」と笑った。

 田沢は今でも帰国した際には、JX-ENEOSへのあいさつを欠かさない。当時の経営陣は、日本人初の挑戦を後押しする懐があった。大企業ならではの「海外赴任」ととらえ、快く送り出した。NPB球団でプレーする以外でも、選手や指導者としてJX-ENEOSに復帰することは十分あり得る選択肢に映る。大久保は「それかシロアリ駆除ですね」と冗談めかす。田沢は高校卒業時に野球をやめ、シロアリ駆除会社への就職を検討したという。そこからJX-ENEOSのオファーを受け、アメリカンドリームをつかむまでに成長。そんなオンリーワンの野球人生は、新天地タイガースで新たな挑戦を始める。(敬称略)