秋山翔吾、米国で迎えた父の日 天国で見守る父語る

父肇さんと秋山(当時2歳)

レッズ秋山翔吾外野手(32)が、天国から見守る父への思いを語った。2000年に父肇さんが、がんのため40歳で他界。当時小学6年生だった少年は日本を代表する打者に成長し今年、息子のメジャー入りを思い描いていた肇さんの思いも背に海を渡った。コロナ禍により“ルーキーイヤー”の開幕日が定まらない中、初めて米国で迎えた父の日。息子として、2児の父として、胸中を明かした。

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強く、威厳のある父親だった。遊んでもらったり、楽しませてもらったけど、こと野球に関しては厳しかった。幼い頃から英語を習っていたのも、父親が「メジャー行った時にどうするんだ」っていう感じだったとも聞いて。普通の発想じゃない。あの時代(90年代後半)にメジャーリーグを頭において。恐ろしい父親だと思う。

もし父親が生きていたら、自分は野球選手になれたのか。いや、なれていないと思う。そこにジレンマがあって。普通の生活ができていたら、やっぱり、どっかで甘えてしまう。「プロになって家族を養うんだ」というハングリーさはなかったんじゃないかなと。

生きていたら、言おうと思えば文句だって言える。大人になって意見したくなることもあっただろうけど、その相手がいない。だから、与えられたものに対して実を結ぶしかない。野球についても厳しい指導をされたけど、父親にはお金や自分の休みも使って、命をかけてまで野球選手にしたいって思いがあったんだと思う。英会話、そろばん、水泳。習い事は全て野球につながっていた。だから、野球に対して中途半端なことをしちゃいけない。

逃げ場がないって言えば、そうだったかもしれない。これだけ賭けてもらってきたものに対して「突き詰めてやるしかないな」っていう気持ちに、どんどんなっていった。「俺は野球選手にならないといけない」という思いがずっとあった。野球が家族をつないでいるものなんだ、とも思っていた。だから野球選手になったことに関して言えば、父親が亡くなったことが、いいトリガーを引いたのかもしれない。でも、母親にとっては稼ぎ頭がいなくって、一番のパートナーがいなくなった。家族としてはすごい苦しいトリガーを引いている。(人生の)分岐点だった。

「家族を構築するためにプロになる」というものがないと、シニアから私立の高校に行くとか、大学で八戸に行くとかにつながらない。「ただ野球がやりたくてやっている」ってだけでは説明がつかない野球のやり方をしてきた。そこが、ズレる。「父親がいても野球選手になるつもりでやっていた」と胸を張って言えるかっていうと、そこまでにはなってないと思う。いや、ならない。例えば、父親がやっていた仕事を一緒にやってみたいという選択肢だってあった。

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ジレンマを抱えながらも、父の背中を追ってきた。生前、肇さんは1級建築士として、建築業の仕事に携わっていた。厳しい野球の指導、しつけ-。幼い頃の父との思い出も秋山の記憶にしっかり刻まれている。

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野球をやるって決めながらも、「もし辞めたら、どういうところに行きたいかな」と考えていた。高校の時の進路相談では工科系を見ていて、建築とか、作図とかにも興味を持っていた。だからある意味、父親の影を追いながら野球をやっていた、というのもあったのかもしれない。

父親は178センチ、80キロくらいで、体格はがっちりしていた。いつも厳しいというよりは、オンとオフがしっかりしていて、子供に伝えないといけないことは、かなり厳しい口調で言われていたと思う。

そういう父親のイメージが崩れることなく、ある日突然、亡くなった。その時の衝撃は結構あった。風邪の延長だろうなって思っていて、後からがんだったと知った。子供たちには絶対伝えないっていう意志があったんだと思う。最後に自分が病院に行ったのは、亡くなる何日か前。近くに東京タワーがあって。今もあの辺をたまに通ったりすると「ああここだなぁ」って思い出すくらい印象深い。

厳しかったことで覚えているのは、冬に家族でスキーに行ってペンションに泊まった時のこと。じゃがいもの冷製スープみたいな料理が出てきて、どうしても食べられなかった。残したら「出された料理は全部食べなさい」って。それは今でも心掛けてるけど、(3歳と5歳の)自分の子供にはなかなか伝わらない。ちょっと、もどかしさもある。

子育てに関しては、僕が何か言えるほどできていない。妻に任せっきりになっているところがあるので。子供たちが恥をかかないようにとか、人に迷惑をかけないとか、最低限のことをどうやって伝えたらいいのか。厳しさと楽しさ、そういう父親としてのコミュニケーションをどうとるのか。正直、野球をやりながらっていうのは難しい。そこは、父親に聞いてみたい。

今はお礼も何も、まだメジャーの舞台に立っていない。父親は、僕の中学、高校、プロまで見たかったと思う。その中で、いろいろなことを僕にどう伝えてくれるのか、知りたい。そして、僕は父親が思い描いたような人にちゃんとなっているのかを。(レッズ外野手)

○…15年から取り組んでいるひとり親家庭の支援活動は、メジャーでも継続する予定だ。西武時代は母の日、父の日、夏休みなどに定期的にひとり親家庭の家族を球場に招待。「レッズは日本人の選手が初めてというのもあるし、(現地の)日本人を招待するという計画はしていた。(これまでと)同じ形で続けたいと思っています」と話した。

○…新型コロナウイルスの感染拡大で3月中旬にキャンプ中断となって以降、秋山はカリフォルニア州ロサンゼルスで自主トレを続けている。同学年で仲良しのツインズ前田にトレーニング施設を紹介してもらい、週5日のペースで調整を継続中。通訳兼球団広報のルーク篠田氏と生活を共にしており、メジャー開催の具体的な日程が決まるまでは、同地にとどまる予定だ。

◆秋山翔吾(あきやま・しょうご)1988年(昭63)4月16日、神奈川県横須賀市生まれ。横浜創学館から八戸大を経て10年ドラフト3位で西武入団。15年に左打者最長の31試合連続安打を放ち、シーズン216安打のプロ野球新記録。17年首位打者、最多安打4度、ベストナイン4度、ゴールデングラブ賞6度。19年オフに海外FA権を行使しメジャー挑戦を発表。20年1月にレッズへの入団が決定。15年プレミア12、17年WBC日本代表。184センチ、85キロ。右投げ左打ち。