日本人メジャーの歴史は「マッシー」から始まった。南海など日本で18年プレーした村上雅則氏(78)は、プロ2年目の19歳でジャイアンツに野球留学。1964年(昭39)9月1日、アジア人初の大リーガーとして初マウンドを踏んだ。同29日には、日米通じて公式戦初勝利をマーク。日本人1000勝の道を切り開いたパイオニアが、当時の秘話を明かした。
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村上氏の記憶には、58年前の初勝利が鮮明に刻まれていた。アジア初開催の東京五輪が開幕する11日前。海風が強い旧本拠地キャンドルスティックパークでのナイトゲームだったが、初登板から7戦目のロングリリーフは熱を帯びた。「相手はコルツ45(現アストロズ)、同点の9回からだったね。延長戦は無制限だし、一生懸命投げるだけでした。ただ、勝利投手のボールはない。だって、ライトに消えちゃったから(笑い)」。3回を1安打無四球3奪三振。4-4の延長11回裏にサヨナラ弾が出て、日本人1勝目が刻まれた。
その7日前には、9回無死一、二塁で緊急登板し、一足先に初セーブを挙げた。現在も日本人史上最年少の20歳デビューから、8試合連続無失点。高卒2年目左腕がメイズ、マッコビー、セペダと後の殿堂野手3人をバックに、名門球団で快投した。ドジャース野茂の「トルネード旋風」に全米も熱狂する、30年以上も前の出来事だ。
プロ入りに踏み切ったのも、米国へのあこがれから。法政二(神奈川)ではセンバツ甲子園V。進学希望も複数球団から誘われ、南海鶴岡監督の「野球留学させる」との口説き文句に、心が動いた。高校寮生活での息抜きが、テレビドラマの西部劇「ローハイド」。「飛行機代が1年働いた額の時代。テレビで見た地球の裏側へ、普通なら行けない」と契約し、2年目に同僚2人と海を渡った。
米国では世話役だった日系人のアドバイスに従い、翌65年もジ軍と再契約。だが、復帰を求める南海との間で板挟みになった。両国のコミッショナーが協議の末、5月にようやく再渡米できた。この年はドジャース相手に、11試合の登板で1失点。ただチームは同氏が不在の間、宿敵に1勝5敗が響き、2ゲーム差の2位。「僕が開幕からいたら、優勝できていたと思う」。前年も3ゲーム差と、ワールドシリーズの舞台には届かなかった。日本でも103勝を挙げたが、「あと5、6年は(MLBの一線級で)できた。食事はうまかったし、楽しかったよ」と日米両球界の取り決めにより、「留学」は2年で終わったことが心残りだ。
メジャーでの2年間は充実していた。ハンク・アーロン、ロベルト・クレメンテ、ピート・ローズら大打者とも対戦。また、「能天気だから気にしない」と持ち前の社交性があり、チーム最年少、通訳なしでも「マッシー」の愛称でかわいがられた。特に誕生日が同じ5月6日のメイズとは親交が深く、91歳の今もクリスマスカードが届く。セントルイス遠征ではカージナルスの至宝、通算3630安打のミュージアルに歓待された。
ダルビッシュは日本ハムの後輩でもあり、期待をかける投手の1人だ。「球種は豊富で、とにかく器用。今年は15勝はできると思っている」とエース格として、プレーオフ進出、さらには世界一を願った。メジャー初勝利から57年と338日。あとに続く後輩たちへ、「人生は1度だけ。これと決めたら、最高峰に向かって悔いのない人生を送ってほしい」とエールを送った。【中島正好】
◆村上雅則(むらかみ・まさのり)1944年(昭19)5月6日生まれ、山梨県出身。63年南海入団。翌春ジャイアンツに野球留学し、1Aで最優秀新人賞に輝き、同9月1日にメジャー契約し同日初登板。メジャー通算54試合(1先発)に登板し5勝1敗9セーブ、防御率3・43。66年の日本復帰後は74年まで南海、75年阪神、76~82年は日本ハム。NPB通算566試合で103勝82敗30セーブ、防御率3.64。68年に18勝4敗で最高勝率のタイトル獲得。左投げ左打ち。現役時は183センチ、81キロ。