岡田二塁復帰が日本一への序曲だった-。平成から令和にかけて、矢野阪神が強い。好調の要因の1つが梅野、木浪、糸原、近本のセンターラインが固まりつつあることだろう。そう言えば1985年(昭60)の阪神は右脚に不安を抱えていた岡田を二塁に戻し、真弓を右翼に回す大コンバートが見事にハマった。元トラ番記者で、大阪・和泉市長を務めた井坂善行氏(64)が85年日本一からの学びを伝える企画「猛虎知新」。第2回は二遊間に着想した。

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南国の高知・安芸といえども、午後2時を過ぎると急に冷えてくる。メイングラウンドでの特打ちは掛布なのだろうか、あるいはバースか。時折、右翼のネットを越えた打球が、下方にあるサブグラウンドにまで飛んでくる。

このキャンプ、サブグラウンドの「主役」は岡田と平田だった。2度目の阪神監督に就任した吉田は、就任発表から1週間後、つまり84年の11月に極秘裏に岡田と真弓と面談し、二塁と右翼の2人をコンバートさせることを決断した。自身が名ショートだったからではなく、吉田のチーム強化への信念がセンターラインの強化であり、木戸を正捕手に抜てきし、岡田-平田の二遊間に懸けた。

だから、吉田もキャンプでの二遊間特訓にはトコトン付き合った。コーチの一枝がノックバットを握り、吉田が付きっきりで指導する。やがて日が落ち、寒さに見舞われても、2人は汗ビッショリになってボールを追った。

鳴尾浜に平田を訪ねた。この時のことを何度か取材したことがあるが、確認の意味を含めて振り返ってもらった。

「いやー、懐かしいですね。あんなにノックを受けたことはないですね。ボクに特打ちなんてなかったし、毎日岡田さんとの特守でした。でも、おかげで下半身は鍛えられたし、シーズンに入っても、併殺プレーなんて、まさにあうんの呼吸。ボクが岡田さんのどこに投げるのか、岡田さんがボクのどこに投げてくるのか…もう体が覚えていました。それぐらい練習しましたよ」

83年に右大腿(だいたい)二頭筋の部分断裂という大ケガをした岡田は、84年のシーズンは足への負担を考慮し、右翼へと回った。しかし、吉田はそこに違和感があり、就任早々2人にコンバートを打診し、断を下し、日本一へと走りだすのである。

さて、令和の矢野阪神。開幕当初はプロの重圧に苦しんだルーキー・木浪が遊撃で安定感を見せ始め、糸原との二遊間が固まってきて、白星がついてくるようになった。このまま定着するのか、それともまた「猫の目二遊間」に戻ってしまうのか。チーム成績に直結する1つのポイントである。

◆今季阪神の二遊間 最多のパターンは「二塁糸原、遊撃木浪」で23試合。開幕戦の3月29日ヤクルト戦もこの2人でスタートし、4月20日巨人戦~同27日中日戦では最長の6試合連続でコンビを組んだ。現在も5月10日中日戦から3試合続いている。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍を経て、プロ野球デスク。「近鉄監督に仰木彬氏就任」などスクープ多数。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選。1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

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○…私がトラ番を拝命したのは82年(昭57)の安藤阪神の1年目だった。当時、オフになると、故障者はリハビリ組と称して、南紀・勝浦での温泉トレに参加するのが慣例となっていた。

岡田は83年7月の甲子園での広島戦、打球を追った時に右足を滑らせ、右大腿二頭筋の部分断裂という故障を負った。そのオフ、岡田は当然リハビリ組として勝浦メンバーに入った。

出発日は、忘れもしない12月2日。私も同行取材することになっていたが、わが家で不幸ごとが起こり、出張は取りやめとなった。取り込んではいたが、そのことを岡田に告げなければ…と思い、出発時刻に天王寺駅に向かった。不幸ごとを告げ、同行出来ないことをわびると、日ごろは無表情な岡田が「そうなんや。気を落とさずに…オレも頑張ってくるから」と言って特急「くろしお」に乗り勝浦へと向かった。「岡田再生」の第1歩が、この勝浦温泉トレである。