中日一筋の名選手で監督も務め、17日午前4時3分に急性心不全のため78歳で死去した高木守道氏。現役時代にその華麗な二塁守備を間近で見てきた一枝修平氏(79=日刊スポーツ評論家)は18日、「元気だと思っていたので、本当に驚いたし、残念です」と沈痛な表情で、代名詞となったバックトスを思い起こした。きっかけは1968年(昭43)の松山キャンプだった。

「カールトン半田コーチに『やれ』と言われて練習を始めたんだけど、簡単なプレーではない。毎日早出で練習していたのを見ていた」

ナゴヤ球場の一塁側ブルペン近くにティー打撃用のネットを置き、黙々とバックトスを繰り返す高木氏の姿が目に焼き付いているという。「私もコーチも一緒にやることはなく、1人で200から300球はやっていた」。地道な努力を続け3年がかりで身につけたという技により「二塁ゴロの併殺のスピードは間違いなく上がった」と二遊間コンビとして自信を持っていたことを明かした。

年齢は一枝氏が1歳上だが、プロ入りは明大-河合楽器を経た一枝氏が4年後。「すでに向こうは大選手で、最初はどう呼ぶか迷った。『高木君』から、しばらくして『守道』と呼ばせてもらうようになった」。高木氏は“瞬間湯沸かし器”とも言われたが「それは監督になってから。板東(英二)さんとは仲が良かったが、選手のときは本当に無口だった」という。ただ「江藤(慎一)さんが怠慢プレーをしたことがあって、それに怒った守道は全くボールを追わなかった。チーム内でも怒らせたらダメだという存在だった」。一枝氏はワンプレーもおろそかにしなかった「野球人・高木守道」を懐かしんだ。