<福留孝介 日米通算2000本への源流(上)>
「ヒットメーカー福留」への分岐点となった秘話がある。1つの新聞記事がなければ、快挙も誕生しなかったかもしれない。日刊スポーツでは、阪神福留孝介外野手(39)の少年時代を振り返る「日米通算2000本への源流」を3回にわたって掲載。初回はPL学園に進む決断の背景にあったドラマを紹介する。
全国屈指の強豪校PL学園と福留を結びつけたのは24年前のある新聞記事だった。鹿児島県曽於郡大崎町の出身。小学校3年生のときにソフトボールを始め、中学校に入学すると、鹿屋市の「鹿屋ビッグベアーズ」に入団した。中学3年の春。チーム紹介記事がスポーツ紙に掲載された。
チームメートの顔写真と名前が並ぶ中、新チーム4番を任された福留だけは特別だった。打撃フォームの連続写真が掲載されたのだ。中学生とは思えない完成されたスイング。元プロの評論家が絶賛していた。その記事を見たのが、福岡で勤務していたPL学園の関係者。「こんな子がいるらしい」。すぐに同校野球部に情報が入った。
当時としては前代未聞だった。地元の有望選手は樟南、鹿児島実など地元強豪校を目指す。関西に進学するということは、考えられなかった。それでも15歳の福留は大きな決断を下す。
「行けるものなら、行ってみたい」
小学生のときの記憶がよみがえっていた。2月の週末には家族5人で車に乗り込んだ。弁当持参で向かった先は宮崎・串間市営球場での中日キャンプ。自宅から40分かけて球場に着くと、日が暮れるまで練習を見た。フリー打撃が始まると、外野芝生席でボールを追いかけた。そこにいたのはPL学園で甲子園を沸かせたスター立浪(現野球評論家)。憧れを抱いた。
鹿児島の実家を離れる朝。家族の前でこう言った。
「3年間、1度もレギュラーになれないかもしれない。でも僕の目標はプロ野球選手。中央に行けば、もしかしたら誰かが見てくれているかもしれない」
その年の秋には名門の4番を任されるようになる。3年の大阪大会では8試合で7本塁打の大会記録を樹立。「10年に1人の逸材」と言われる選手になった。新聞に連続写真が掲載され、偶然にもPL関係者がその記事を見ていた。今思い返せば、不思議な縁で結ばれていた。(つづく)