夜の自宅で父も母もボールトス/福留連載・下

<福留孝介 日米通算2000本への源流(下)>

 「ヒットメーカー福留」への分岐点となった秘話がある。日刊スポーツでは、阪神福留孝介外野手(39)の少年時代を振り返る「日米通算2000本への源流」を3回にわたって掲載する。

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 福留家にはルールがいくつもあった。食事は絶対に大皿で出さない。兄、弟、孝介の男3兄弟は、母郁代さんの「食事だよ」の声を聞いて台所に並ぶ。1人1人の量は違うが、種類に偏りはない。好き嫌いは許さなかった。「これは食べない」と残せば、次の日も1人だけ同じメニューがお盆に並ぶ。徹底していた。

 中学の頃、授業を終えて硬式野球「鹿屋ビッグベアーズ」の練習場にバスで向かう。夏休みには自宅から20キロの距離を自転車で通った。練習の行き帰り用にと、2食分の弁当まで用意してくれたのは母郁代さんだった。その2食と、朝昼夜の計5食。会社勤めの母は忙しい合間を縫って食事を用意。その苦労を福留も、もちろん理解していた。

 練習を終えて帰宅してからも夜間の打撃練習が続いた。投光器も防球ネットも父景文さんの手作り。前から、横から、後ろから、時にはタイミングを変えて。父も母も交代でボールを上げた。冬には火鉢をおいて、どてらを着込む。大粒の汗をしたたらせる息子が納得するまで特訓は続いた。ただ、どんなに遅くなっても練習着を洗濯するのは福留の仕事だった。

 働き者の両親は仕事の都合もあり、福留の日米通算2000安打を球場で見ることはなかった。そんな両親に向けてか、福留は直後の記者会見で感謝の言葉を口にした。「ここまでできたということは両親をはじめ周りの方々に感謝です」。父景文さん、母郁代さん。超一流の仲間入りを果たしたヒットメーカーは、厳しくも愛情のあふれる家庭で育った。【桝井聡】(おわり)