赤ヘルの名ストッパー津田元投手が死去/復刻

1993年7月21日付日刊スポーツ1面(東京版)

<日刊スポーツ:1993年7月21日付>

 プレーバック日刊スポーツ! 過去の7月21日付紙面を振り返ります。1993年の1面(東京版)は、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんの死去でした。

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 1982年(昭57)新人王、名ストッパーとして活躍した元広島投手の津田恒美(つだ・つねみ)さんが20日午後2時45分、脳腫瘍(しゅよう)のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去した。32歳。くしくも、津田さんが5回も出場し快速球を披露したオールスター第1戦の当日、2年余りの長い闘病生活にピリオドを打った。プロ通算生活10年間で49勝41敗90セーブ。早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれていた。山口県出身。

 だれもが「本当ですか!?」と絶句した。巨人長嶋監督らセ・ベンチはもちろん、西武清原らパ・ベンチの関係者も声を失った。津田さん死去の悲報は、球宴開幕のセレモニー直前、両軍関係者に届いた。元同僚の広島大野は「信じられない。津田は元気になると、自分に言い聞かせていたのに」と目を潤ませた。

 オールスターには5回出場し、いつもバネの利いた躍り上がるようなフォームで剛速球を披露した。元気でいれば、この日もこの舞台で快投を演じたことだろう。まだ32歳。闘病中だったのは大半の関係者が知っていたが、この若さで逝ってしまった稀有(けう)な才能に、だれもが言葉を失った。

 炎のストッパーが病魔に襲われたのは一昨年のことだった。91年の春季キャンプ中から頭痛を訴えて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消された。そして5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田さんが「水頭症」であることを発表(当時、脳腫瘍であることの発表は周囲の動揺を避けるため控えられた)。同20日に準支配下選手とした。

 その後、福岡市内の病院で治療を受けたものの、過激な運動はもう無理と判断された。広島の優勝が決定する前に本人から、退団届が提出された。球団は本人の意思を尊重して、同年11月6日付で退団を受理した。新人王に輝き、86年は優勝に貢献。89年には40SPで最優秀救援投手賞を獲得した津田さんはプロ10年目で、31歳だった。90年こそ故障に見舞われたが、まだまだ現役で投げられる年齢なのに、病魔に野球生命を奪われてしまった。

 昨年3月末のこと。津田さんは博多遠征中のチーム宿舎へ陣中見舞いに訪れた。元気そうな姿に山崎隆、北別府らは安心した。「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、博多が本拠地のダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と、津田さんはかつてのチームメートに笑顔でもらしたという。ひょうきんな性格でナインのだれからも愛された男。生きがいを奪われても陽気に振る舞った。

 会話も不自由な状態に陥ったり、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続いた。今年3月のオープン戦中、チームの福岡遠征の折、山本監督は正田選手会長、山崎隆を連れて見舞いに行った。その時にはやせほそった痛ましい姿だった。それでも奇跡的な回復を信じ、山本監督らは津田さんに励ましの言葉をかけた。

 願いはかなわず、帰らぬ人となった津田さん。あまりに若すぎる死だった。

 <「もう野球出来ない…」最後の登板後コーチ室で悔し泣き>

 津田さんの現役最後のマウンドは1991年(平3)4月14日の対巨人3回戦だった。1-0でリードの場面、8回から登板したが、ヒット2本、1死球で逆転負け。一死もとれずに2失点で敗戦投手となった。この時のことを広島前投手コーチの池谷公二郎氏(現評論家)は「KOされた津田がコーチ室にやってきて、もう野球をやる自信がなくなったと言いにきたんだ」と話した。ロッカー室でフロにも入らず1時間説得したことがあった。病院へ行ったのはその翌日だった。「2回見舞いに行ったが、悔しいと言って泣く姿は見ていられなかった」と肩を落とした。

 <5回出場で被安打1・津田投手と球宴>

 津田投手は1983年(昭58)86~89年の5回、球宴に出場している。初出場の83年は地元広島球場での第3戦に先発し、3回を2四球だけのノーヒットに抑えた。その後は主にセ・リーグのストッパーとして登場し、88年第2戦には9回、3者三振でセーブをマーク。通算成績は7試合0勝0敗2S、10回1/3を投げて被安打1、無失点の防御率0・00。球宴で通算10イニング以上を投げて無失点の投手は、林(大映)柚木(南海)と津田投手の3人しかいない。

 ◆津田恒美(つだ・つねみ) 1960年(昭35)8月1日生まれ。山口県新南陽市出身。山口・南陽工時代の78年、春夏連続で甲子園に出場。卒業後、社会人の協和発酵に入社。81年ドラフトで広島に1位指名され入団。82年に11勝6敗の成績を挙げて新人王獲得。リリーフに転向した86年には22セーブを記録して5度目のリーグ優勝に貢献、カムバック賞に選ばれた。89年には40SPで最優秀救援投手賞。91年に水頭症のため退団。10年間の通算成績は286試合に登板し49勝41敗90セーブ、防御率3・31。家族は晃代夫人(30)と長男大毅(だいき)君(5)。なお現役最後の年は登録名を恒実(つねみ)

※表記などは当時のもの。