山田久志氏、野村野球の上いく気概 上田利治氏悼む

77年10月、巨人を下して日本一に輝き山田(左)とビールで乾杯する阪急上田監督

 プロ野球阪急(現オリックス)、日本ハムで指揮を執った上田利治(うえだ・としはる)氏が1日午前2時55分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。日本ハムが2日、発表した。80歳だった。阪急時代に上田氏の下でエースとして活躍し、75年からの3年連続日本シリーズ制覇にも貢献した日刊スポーツ評論家の山田久志氏(68)が悼んだ。葬儀・告別式は6日に営まれる。

 上田さんは激情の人だった。普段は温厚なのに、いざグラウンドに入ると熱くなって、激しく振る舞った。阪急を強くしたい一心だったに違いない。

 広島で実働3年だけの捕手だった上田さんを、阪急のコーチに招き、監督に推したのは西本幸雄さん。名将の眼力だった。

 (三羽がらすと呼ばれた)門下生の私、福本(豊)、加藤(秀司)が円熟していたから、阪急が勝つと、常に「西本遺産」といわれた。しかし、上田さんは自らの情熱で常勝チームをつくり上げた。もっとも輝いたのは3年連続日本一を成し遂げた時代だろう。75年広島を下して球団初の日本一、76、77年は巨人を倒した。阪急を「球界の勇者」に育てたのは、上田さんの手腕だった。

 しかも、厳しい指導とともに、勝つたびにチームを刷新する。DH制が導入された75年はベネズエラ出身のボビー・マルカーノ内野手を獲得(同選手は阪急、ヤクルトで通算1418安打)。76年は日本一になった直後に、中日と4対3の大型トレード(阪急は稲葉光雄、島谷金二、大隅正人を獲得。中日は森本潔、戸田善紀、大石弥太郎、小松健二を獲得)を敢行したのは驚きだった。血の入れ替えを図って刺激を与えながら勝利に導いた。

 監督としては、南海、ヤクルトなどで指揮を執った野村克也氏の「考える野球」を意識していたふしがある。当時はあり得なかった一、三塁からのヒットエンドランなど奇策は、上田さんの発想によるものだ。

 特に短期決戦では緻密なデータに基づいた作戦を駆使し、自分は「野村野球」の上をいってやるんだという気概も感じた。大変な読書好きで、遠征先にも必ず手元に4、5冊の本を置く勉強家だったのも思い返される。

 西本さんから受け継いだ「阪急魂」を継承し、阪急ブレーブスの黄金期を築かれた上田さんは、まさに名監督だった。心より哀悼の意を表したい。(元阪急投手、日刊スポーツ評論家)

 ◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。関大時代に故村山実氏(元阪神)とバッテリーを組み、59年に広島入団。捕手として3年間で121試合に出場、2本塁打、打率2割1分8厘。62年から広島、阪急のコーチを歴任し、74年に阪急監督に就任。優れた統率力で阪急を常勝チームに変え、75年から3年連続で日本シリーズ制覇に導いた。78年のヤクルトとの日本シリーズ第7戦で本塁打の判定を巡り、1時間19分抗議した。その責任を取って辞任したが、81年に復帰して阪急、オリックスで10年間指揮を執った。95年から5年間は日本ハムの監督を務めた。監督通算20年間の成績は1322勝1136敗116分け。最下位の経験は1度もなく、リーグ優勝が5度、日本一は3度。監督時代には「ええで、ええで」と選手を褒めることでも有名だった。2003年に野球殿堂入りを果たした。