巨人阿部が反骨心と探求心で積み重ねた2000H

広島対巨人 9回表、阿部は右前打で2000安打を達成し、花束を手に歩み寄る広島新井(手前)に笑顔を見せる(撮影・浅見桂子)

<広島4-1巨人>◇13日◇マツダスタジアム

 慎之助、最高で~す! な2000安打だ。巨人阿部慎之助内野手(38)が、史上49人目のプロ通算2000安打を達成した。残り1安打で迎えた広島20回戦(マツダスタジアム)に「4番一塁」で出場。3打席目まで無安打だったが、9回第4打席に右前打を放った。球団生え抜きでは川上、長嶋、王、柴田に続く5人目の偉業。プロ17年目での到達に、巨人ファン、そして敵地の広島ファンからも大きな拍手が送られた。

 最高の景色が目の前に広がった。9回1死、広島今村の内角寄りの136キロフォークを右前へ引っ張った。カーンと乾いた打球音を響かせ2000本目の安打を決めた。敵地マツダスタジアムで湧き起こった「慎之助コール」。新井、坂本勇から花束を受け取り、四方に深々と頭を下げた。「いつもとは違うドキドキした気持ちがあった。不思議な1日でした。本当なのかな。そんなにすごいことをやったのか。それが率直な気持ちです」と心境を明かした。

 心の振る舞いを重んじた。残り83本で迎えた今季の目標は明確だった。1月2日。東京ドームで大記録への打ち始めを敢行した。練習後に色紙に意を込めて「斬新」と記した。「今までやってきたことに寄りかかるんじゃなくて大胆に攻めたい。もっとという気持ちを大事に」。オムツをはいていた幼少期に父の草野球にくっついて朝から球場に行った。「ベンチでみんなが遊んでくれるから」と野球にのめり込むきっかけになった。当時、抱いた好奇心、探求心は色あせない。

 同時に年輪も重ねてきた。色紙を裏返し、ペンを走らす。「残心」。子どもが埋めるタイムカプセルのように。達成後の自分へ記した。「目標に到達した後が大事。攻めた直後がね。心の構えを保つ。また新しい目標に向かって行くから」。第1志望の高校入試に失敗した。第2志望の安田学園に進んだ。米在住の親戚を頼りに野球留学も考えた。結果が出た後、どうするか。方法論は変わらない。

 不可能と限界はない。3月の早生まれで体が小さかった。中学1年時は身長150センチ、体重60キロ。非力で「カンチャンの慎ちゃん」が愛称。「とにかく食べた」と特大おにぎり8個を携えた記憶は消えない。食べ切れず、2個は練習後に頬張った。3年後、身長は22センチ伸び、体重は15キロ増。体の成長とともに輪の中心へと進んでいった。

 体は成長しても野球センスに乏しかった。「中学までは『センスがない』と言われた。だから自負している。センスは努力でカバーできる。だから今、俺がここにいる」。掛布を目指し、バースに憧れた。布団に入ってからも鍛錬だ。寝転びながらボールの縫い目に指がかかるように真上に400球投げてから就寝した。プロ入り後の練習量は言うまでもない。反骨心が努力の原点にある。

 代名詞だった捕手との別れが大台へのスパートの合図になった。15年6月6日ソフトバンク戦を最後に扇の要を離れた。バット1本での戦いを挑んでいる。捕手時代の「守備の負担」は通用しない。でも、やっぱり捕手が“永遠の恋人”だ。5月中旬にメーカーからキャッチャーミットが届いた。「今すぐに使おうとは思ってないよ。いつになるか分からないけど引退試合かな」。誰にも邪魔されない、心の奥底に、そっとしまっている。その日まで-。最強の笑顔のままでいる。【為田聡史】

 ◆阿部慎之助(あべ・しんのすけ)1979年(昭54)3月20日生まれ、千葉県浦安市出身。安田学園-中大を経て00年ドラフト1位で巨人入団。01年に新人捕手でチーム23年ぶりに開幕先発出場し、初打席初安打初打点。04年4月に当時の日本記録に並ぶ月間16本塁打。09年日本シリーズMVP。12年は首位打者、打点王、最高出塁率に輝き、MVP、正力松太郎賞。ベストナイン9度、ゴールデングラブ賞4度。180センチ、97キロ。右投げ左打ち。今季年俸は2億6000万円(推定)。父東司さんは習志野-中大-電電東京(現NTT東日本)で捕手としてプレー。習志野では阪神掛布雅之2軍監督の同級生で、2人がクリーンアップを組んで甲子園出場。