岩村明憲、来季は監督専任へ 現役にこだわった意味

引退セレモニーで選手に胴上げされる岩村明憲選手兼任監督(撮影・高橋洋平)

 ルートインBCリーグ福島ホープスの岩村明憲選手兼任監督(38)が、後期最終戦となった10日の武蔵戦で引退した。3年目で初の「1番DH」で先発して2安打を放ち、21年間にもわたった現役生活の有終の美を飾った。試合後に行われた会見では、約1時間も真摯(しんし)に話し続けた。その時間の中で、男・岩村明憲を作り上げた3人の恩師への感謝が語られていた。その存在に迫る。

 感謝の言葉であふれていた。岩村は会見の冒頭に自ら3人の恩師の名前を挙げ、21年間の現役生活を振り返った。意外にも最初に出てきた名前は、掛布雅之(62=阪神2軍監督)だった。同じ左打ちの三塁手として鳴らした大先輩だ。

 岩村 自分は掛布さんに憧れて左打者になったぐらい。掛布さんは30歳前半で引退された。その代わり、活躍された時のインパクトは、野球少年だった僕を魅了してくれました。追い付き追い越せでやってこれた。

 岩村は宇和島東高(愛媛)では捕手。プロに入ってからの三塁手転向を後押ししてくれる存在だった。掛布は岩村よりも短い15年の現役生活で1656本の安打を放ったが、まばゆい光はそう長くは続かなかった。そんな大先輩の影を追う自分がいた。

 岩村 憧れた掛布さんが短命であれば、自分も(それで)いいのかなという気持ちは、プロに入ってからもあった。その代わり、太い人生にしたい、という目標があった。

 だが、実際に岩村が選んだのは起伏の激しい野球人生だった。ヤクルトでは01年に日本一、WBC日本代表では2度の世界一。08年の米大リーグのレイズ時代にはワールドシリーズにも出場した。11年に日本へ戻り、楽天、古巣ヤクルトでプレー後、ついのすみかに選んだのはBCリーグの福島だった。身近にいた大先輩の影響で考えが変わっていった。

 岩村 声をかけてくれた先輩からは「現役は最高だぞ、引退してからでは何もできないぞ」と教えていただいた。現役生活にこだわる意味が、自分には分かってきた。いろんな先輩の中で、ヤクルトの池山隆寛さん(51=楽天1軍チーフコーチ)が教えてくれた。池山さんの引退試合に出たとき、こうなりたいという憧れ、目標があった。

 02年10月17日に行われた池山の引退試合。現役生活19年目に突入した池山は右アキレスけん痛を抱えながらも、最後は足をひきずりながらフルイニングで必死にプレーした。遊撃から三塁に転向した池山から定位置を奪い、前年に背番号1を譲り受けていた。

 岩村 同じポジションのライバルで、立ち居振る舞いから全部見てきた。あらためて思うのはすごい方。どこに行こうが、アメリカに行こうが、池山さんに勝つことはできない。池山さんのように、掛布さんのように多くのファンの気持ちを魅了することが、僕にも少しはできるのではないか。いろんなことを経験した以上、今後の野球界の後輩たちに伝えていきたい。

 掛布、池山の背中を追うことができたのは、岩村に強靱(きょうじん)な精神力があったから。岩村の原点とも言える「何苦楚(なにくそ)魂」という言葉は、元西鉄の中西太氏(84)から授けられた。ヤクルトでの特別コーチ時代から今でも師弟関係は続き、当日は球場まで駆けつけて愛弟子の晴れ姿を目に焼き付けた。

 岩村 175センチでここまでやってこれたのも、何くそと踏ん張りながら、つらい練習を耐えてきたおかげ。今日お会いして「ここまでよくやった」と言葉をかけてもらった。太さんには本当に感謝している。

 来季は監督専任でチームに残留する見込みだ。現役生活との両立から解き放たれ、後進育成に集中する。現役を無事に終えられた感謝を胸に、岩村を超える存在の育成に取り組む。

 岩村 決して満足しているわけではありませんが、ここまで一生懸命やったのであれば、悔いはない。自分は本当に幸せな男だと思います。いろんな方にありがとうという気持ちを伝えたい。いろんな方に支えられて今日まで来ることができた。今後は第2の岩村明憲を育てていきたい。【取材・構成=高橋洋平】

 ◆岩村明憲(いわむら・あきのり)1979年(昭54)2月9日、愛媛県生まれ。宇和島東高から96年ドラフト2位でヤクルト入りし、01年に日本一。06年オフにデビルレイズ(現レイズ)に移籍し、08年に球団初のリーグ優勝に貢献した。パイレーツ、アスレチックスを経て、11年に楽天、13年からは古巣ヤクルトでプレーした。15年から福島ホープスの選手兼任監督を務め、同年11月から球団代表にも就任。日米通算1585安打にBCリーグ通算14安打を加え、計1599安打をマークした。175センチ、92キロ。右投げ左打ち。家族は美幸貴夫人に、1男1女。