鳥谷は「スキを見せない」藤本コーチ語る/コラム

05年、打撃練習に励む藤本(右)と鳥谷

<酒井俊作記者の旬なハナシ!>

 鳴尾浜のベンチから、めまぐるしく視線を移す。捕手、遊撃手、二塁手…。阪神で2軍守備走塁コーチを務める藤本敦士は、細やかにポジショニングをチェックする。若い内野手に声も掛ける。「間違ってもいいから、自分が感じたように動いてみろ」。投手と打者の力関係や配球を踏まえ、1球ごとに守備位置を変えていく。かつての自分が、同僚と突き詰めた理想だ。

 あれから、もう10年以上たつ。シュアな打撃と俊足で鳴らし、03年は遊撃で126試合に出場。初めて規定打席で打率3割1厘に達した。チームも18年ぶりに優勝。浮足立つムードにあっても自らを戒めた。いつも、金本知憲から「クギ」を刺されていたからだ。

 「この世界、一寸先は闇やぞ。だから、お前は3割打つな!! 打ったら、ホッとしてしまうからな」

 一息つくどころではなかった。優勝翌年、同じポジションを守る大卒の内野手がドラフト1位で加わったのだ。スポーツ紙には「金の卵」「即戦力」の見出しが躍る。自らを脅かすライバルの出現に発奮し、04年のオープン戦で打率3割6分。それでも、開幕の遊撃スタメンに名前はない。彼の不振で出番は増えたが、将来を見据える岡田彰布監督は05年に完全なコンバートを断行して二塁へ。不遇な立場は、心を試される。

 「もちろん、負けたくない一心でした。でも監督が決めること。腹をくくって『二塁で100%、頑張ろう』と。割り切らせてくれたのはアイツの姿です。僕らを認めさせる練習態度、試合結果…。力でね。アイツがショートを守るなら、コンビでしっかりやっていこうという気持ちの方が、すごく強かったです」

 ある時、練習後、ロッカーでスパイクを脱いだ彼の足の指に驚いた。青く腫れ上がっていた。「大丈夫か? それ、絶対にヤバイで…」。心配しても、涼しい表情で言う。「これくらいは大丈夫です」。圧倒されるしかなかった。「野球に対してスキを見せないんですよね」と振り返る。卑屈にならず、現実を受け入れられたのは、彼の覚悟に触れたからだろう。

 忘れられない喜びがあるという。2度目の優勝だった05年は二遊間を守った。「コンビを組んで、呼吸が合うときが、一番、気持ちよかった」。併殺狙いで、想定外な二塁送球でも彼が待っていた。「1球1球、言葉がなくても目だけで分かる」。アイコンタクトでポジショニングを決める。ともに重ねた年輪は、藤本の指導哲学になっている。

 「昔を思い出しながら、若い子に『こういうふうにやってみたら』と言っている。選手は主役やから。自分たちで感じてほしい」

 藤本は阪神でプレーした後、ヤクルトでも戦った。現役13年をへて、若手を育てる立場になった。あの時を、いま、こう振り返る。

 「コーチになって思うのですが、平均的な小さい五角形より、何か突出した、いびつな五角形のほうが魅力がある。03年以降は、本当のプロの厳しさを感じました。04年のオープン戦で結果を出しても僕は出られなかったけどアイツの方が魅力があるということなんです。ずっと気になる存在でした。アイツがやっていたら、自分ももっとやらなあかんと、相乗効果を持たせてくれた人物でした。もし、アイツが入ってこなかったら僕の野球人生はもっと短かったかもしれない」

 守るとき、いつも隣にいた彼は9月8日のDeNA戦で通算2000安打を刻んだ。藤本は事もなげに言う。「僕から思えば必然的なことです」。鳥谷敬に向けた、この上ない、祝福だった。(敬称略)