闘将星野さんまいた思いの種がパラリンピアンを育む

星野仙一氏(2014年10月4日撮影)

 楽天は東日本大震災から7年の3月11日を、当時の監督だった星野仙一さんの故郷、岡山・倉敷で迎えた。震災から2年後の13年、楽天を球団初の日本一へ導き、東北に夢と希望を運んでくれた星野さんは、今年の1月4日に70歳で亡くなった。星野さんが東北の地に“蒔(ま)いた思いの種”は、郷里の子供たちにも、さらには楽天の教え子たちにも届いていた。岡山の社会福祉法人「旭川荘」を取材した。【取材・構成=栗田尚樹】

 あの日から、7年の月日が流れた。東日本大震災。多くの人が心を痛め、涙を流した。恐怖ともいえる大惨事から2年後、その東北の地が歓喜に沸いた。楽天が、日本一を成し遂げた。その中心で、星野さんは宙を舞った。東北の人たちの笑顔が、うれしかった。誰かのために-。星野さんの気持ちの根っこに、そんな気持ちがあった。

 現役引退した82年から「社会貢献活動をしたい。何か出来ないか」と周囲に漏らしていた。知人を通して地元・岡山の社会福祉法人「旭川荘」の存在を知った。岡山駅から車で20分ほどの距離にある同施設。裏には旭川が流れ、龍ノ口山に囲まれる自然豊かな場所。84年からこの場で、障害のある子どもたちとの交流が始まった。

 「障害があっても、何か野球に近いものは出来ないか」

 野球というスポーツを通して何かを感じてほしい-。そんな思いから、米国ではメジャーだったティーボールを子どもたちに勧めた。ピッチャーが投げる代わりに、棒の上の台に置いた球を打つ競技。道具一式を寄付、ユニホームもそろえた。施設内の屋上に「夢ひろば」を設置し、練習場所も確保した。だが、当初は子どもたちにとって「遊び」の延長だった。

 96年に初開催された第1回「ティーボール大会 星野杯」。同施設のチーム「旭川療育園フェニックス」の代々の主将は、毎年の結果を星野さんに報告するのが慣例だった。負けると怒られる。星野さんは「お前が、しっかりしていないからだぞ」「練習が足らんのやったんじゃないか」。障害があるからといって構うことはなかった。

 「試合をやるだけでは駄目だ。勝ちにこだわれ」

 子どもたちに口酸っぱく言い続けた。「勝負事は、勝たないといかんのじゃ」とプロの現場同様の張り詰めた空気もあえて作り出した。もちろん勝てば、満面の笑みで迎えた。「すごいな。良かったやないか」。「うちは、勝てていないから。頑張るわ」と中日、阪神、楽天のチーム状況を引き合いに出し、ともに喜び合った。

 選手たちの意識が徐々に「スポーツ」に変わっていった。車いすを降りられない選手、体にまひのある選手…。自分は何が出来るのか-。ある選手は「自分は動くことが出来ない。だったら、参謀役になる」と選手の特徴を観察し、作戦を立てる役に徹した。おのおのが、勝つための策を考え始めた。試合に負けると、本気で悔しがった。自然と勝つ喜びを求めるようになった。

 星野さんは子どもたちに「諦めるな」とも言い続けてきた。それは、自身にも言い聞かせているようだった。何があっても-。あの震災が起きた年も、当然のように子どもたちと触れ合った。旭川荘・旭川療育園の堀野宏樹副園長(58)は「本当は、大変なはずなのに。決して悲しい表情は見せなかった。そういう人でした」と振り返る。震災を言い訳に来訪を取りやめることはしなかった。被災地への思いは忘れることはない。子どもたちのことも本気で思っていた。

 星野さんが訪れて、子どもたちは変わった。堀野副園長は「何より、前向きになりました。やっぱり障害があるという部分で、どこかしらで無理だと諦めてしまうこともある。でも、それを星野さんが変えてくれた気がする」と説明した。

 「勝つことにこだわること」「夢を持ち、諦めないこと」は、脈々と受け継がれる。その1人が、進行性の脊髄小脳変性症と闘う木山由加さん(34)だ。10代のころ「旭川荘」に通い、皆と同じようにティーボールに取り組んだ。

 木山さんは、熱中していた車いすマラソンの練習も怠らなかった。同施設を卒業後、国立吉備高原職業リハビリテーションセンターに入所。そこからJR西日本に入社した。だが、企業のバックアップ、支援はない。自己負担で、競技も続けた。「出来なくなるまでやりたい」と諦めることはなかった。そんな姿勢を認められ、エイベックス社所属のチャレンジド・アスリートの一員となった。

 そして念願を果たす。初出場した12年ロンドン・パラリンピックでは、車いすで2番目に症状が重い「T52」のクラスで、100メートル7位、200メートルで6位。16年リオ・パラリンピックでは同じ「T52」のクラスで100、400メートルで4位とメダルまであと1歩のところだった。

 ジャンルは違えど、第一線で活躍する人は他にもいる。森山風歩さん(37)は作家、タレントなどマルチな才能を発揮する。彼女も「旭川荘」出身。進行性筋ジストロフィーを患っている。逆境とは思わず、前へ突き進む。そんな“教え子”たちが、ここから巣立っている。

 星野さんが、ティーボールを通して伝えたかったことなのかもしれない。「勝負事では、絶対に負けるな」「勝つことに、とことんこだわれ」「絶対に諦めるな」。周囲を鼓舞し、自らを律する、そんな姿勢はずっと変わらなかった。そして、これからも、受け継がれていくはずだ。