衣笠祥雄さん 死去4日前かすれ声解説 鉄人貫く

87年6月、中日戦で2131試合連続出場の世界新記録を達成して表彰を受ける衣笠さん

 プロ野球広島の内野手で、国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が、23日夜に上行結腸がんのため東京都内で死去したことが24日、分かった。71歳だった。プロ野球記録の2215試合連続出場で「鉄人」と呼ばれた。75年に広島のセ・リーグ初優勝に貢献し、「赤ヘル旋風」を巻き起こすなど黄金期を支えた。引退後は解説者として亡くなる4日前までテレビ解説を務めた。通夜は24日に東京都内で近親者により行われた。

 突然の悲報だった。衣笠氏は19日、横浜スタジアムで行われたDeNA-巨人で、今季初めてTBSのテレビ中継の解説を務めた。体調を気遣い「代わりましょうか?」と打診されたものの、仕事への強い意欲を示したという。周囲の配慮で、急きょ元巨人の槙原寛己氏とのダブル解説となった。それが最後の公の場となった。

 当日の実況を務めたTBS戸崎貴広アナウンサー(55)は「打ち合わせの段階から声が出にくそうで心配の中、始まりましたが、開始と同時に声がワントーン高くなって、仕事に対する衣笠さんの意志の強さをかいま見ました」と明かした。声はかすれていたが、鉄人という言葉にこだわりを持った故人らしく最後まで美学を貫いた。

 関係者によると、2~3年前から闘病生活を送っていたという。それでも周囲に体調を崩す姿はほとんど見せなかった。今年1月の新年会にも出席。隣の席になった戸崎アナには「今シーズンが楽しみだ」と、明るく元気に話していた。昨年に比べると、今年は顔色も良かったという。

 現役時代は「赤ヘル軍団」広島の象徴として時代を彩った。プロ3年目の67年、後に広島や西武などで監督を務める根本陸夫氏の1軍コーチ就任が転機となった。2軍暮らしが続き、私生活も乱れていた時期に合宿所で毎晩のように説教され、長打やフルスイングという原点を見いだした。翌年から主力へと成長。長年低迷していた広島を山本浩二氏とともに引っ張り、75年に初めてリーグ制覇した。79、80年に連続日本一。黄金期を支えた。

 何より功績をたたえられるのが、試合に出続けたことだ。プロ6年目の70年10月から連続試合出場を続け、87年6月にルー・ゲーリッグによる当時の米大リーグ記録2130試合を更新。同年に引退するまで、死球による骨折も乗り越えて2215試合に連続出場した。「1回から9回まで、試合にずっと出たい。野球を始めた子どもの最初の目標であり、夢だ」。そんな野球選手としての原点を、衣笠氏は手本として多くの人に見せ続けた。

 この日の夕方、遺体は都内の自宅から通夜会場に運ばれた。広島の鈴木球団本部長によれば遺族には「そっとしておいてください」との意向があり、同本部長は「球団としてのコメントは控える」とした。今日25日の葬儀・告別式も近親者のみで行われる。球団は、今後お別れの会の開催などを検討していくという。

 ◆衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)1947年(昭22)1月18日生まれ。京都府出身。平安高(現龍谷大平安)では3年春夏に甲子園出場。ポジションは捕手。65年に広島入団。66年の後半から一塁手に転向。68年定位置獲得。70年10月19日から連続試合出場がスタート。72年リーグ最多の147安打。74年フルイニング出場がスタート。75年三塁手に転向した。初のベストナインを獲得するなど広島の初優勝に貢献。76年には盗塁王。79年フルイニング出場が止まる。80年1247試合連続出場で日本記録更新。83年2000安打達成。84年打点王、最優秀選手、正力賞。87年6月13日、ルー・ゲーリッグの世界記録を更新する2131試合連続出場。国民栄誉賞を受賞し、同年に2215試合まで伸ばして引退。96年野球殿堂入り。ベストナイン3度、ゴールデングラブ賞3度。球宴出場13度。現役時代は175センチ、73キロ。右投げ右打ち。愛称は鉄人。家族は正子夫人と1男1女。長男友章さんは元俳優。

 ◆上行結腸がん 長さ約2メートルの大腸(盲腸、結腸、直腸、肛門)のうち、盲腸から上(頭側)に向かう部分の上行結腸に発生するがん。出血しても排便までに時間がかかるため、発見しにくい傾向がある。