ロッテ福浦、ドラフト最下位から下剋上2000安打

8回裏ロッテ無死、福浦は右越え二塁打を放ち2000安打を達成し、喜ぶベンチを背に感極まった表情で二塁に向かう(撮影・浅見桂子)

<ロッテ3-5西武>◇22日◇ZOZOマリン

雨上がりの空に歓喜の「ふくうら」コールがこだました。ロッテ福浦和也内野手(42)が22日、西武24回戦(ZOZOマリン)の8回に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000安打を達成した。42歳9カ月での到達は、15年に42歳11カ月で達成した和田一浩(中日)に次ぐ2番目の年長記録。93年ドラフトの最終7位指名で入団した男が、ひたむきに25年をかけて偉業を成し遂げた。

滑り込んだ二塁上で思わず左こぶしを突き上げた。「ほっとしてる感じです。長かった-」。福浦は8回の最終打席、先頭で小川のスライダーを引っ張った。加速した打球が右翼手の横を抜ける。今は2人だけになった球界最年長野手、西武松井が花束を持って歩み寄ると、顔をくしゃっとほころばせた。祝福の時を、西日が柔らかく照らした。

「ここまでやれるなんて、誰も思ってなかったよ」。紙一重の野球人生を歩んできた。25年前、プロになれる選手となれない選手の境目にいた。ドラフト指名は64選手中64番目。呼ばれなければ社会人の大昭和製紙(静岡)に進むつもりだった。「でもそこの野球部、2年後に廃部になった。行ってたら今ごろ、紙つくってたかもしれない」。

入団当初は左投手。支配下選手最大の背番号「70」を与えられた。アリゾナキャンプでは選手で唯一、裏方さんと同部屋に。「スタッフ採用?」「裏方ドラ1」とささやかれた。

最大の転機は1年目の初夏。打撃センスを買われ、山本功児2軍打撃コーチから野手転向を打診された。まだ投げたかった。半ば押し切られる形で受諾。「あれがなければ僕はいない。投手を続けたら今ごろ、(ロッテ社員で)お菓子つくってたかもしれない」。

4年目で1軍戦初出場。母の病死を乗り越え、01年に首位打者を獲得して「幕張の安打製造機」と呼ばれるようになっても、順風満帆にはいかなかった。07年、右脇腹痛で6年連続打率3割が途切れた。振るのが怖くなった。「選手生命の危機なんて毎年感じてた。気力だよ」。今季も首痛に苦しんだ。衰えを受け入れ、フォームは毎年変えた。

いつしか代打が当たり前と思っていた。今春、鳥越ヘッドコーチの言葉にハッとした。「まさか代打で出る気じゃないだろうな」。偉業後押しへ、井口監督も積極起用の方針を固めた。6月には1カ月無安打の時期もあったが、不屈の闘志でマクった。開幕前の残り38本は「ゼロ」になった。

千葉に生まれ、千葉の高校から地元球団に進み、良いときも悪いときもロッテ打線をけん引してきた。歴代年長2位の42歳と9カ月。1500安打から9年を要し、25年の歳月をかけてマイルストーンを打ち立てた。「2000本に近づくたび、みんな『寂しい』って言うんだよ」。誰からも愛された。

史上初の、ドラフト最下位からの「下克上」2000安打。次の目標は明確だ。「井口監督を何とかマリンで胴上げしたい。優勝をみんなで分かち合いたい。来年もやるつもりです、まだまだ」と現役続行を明言。「俺たちの福浦」の物語はまだ、終わらない。【鎌田良美】

◆福浦和也(ふくうら・かずや)1975年(昭50)12月14日、千葉県習志野市生まれ。習志野ではエースで4番(甲子園出場なし)。93年ドラフト7位でロッテに入団し、1年目の94年夏に打者転向。4年目の97年に1軍初出場。01年首位打者。01~06年に6年連続打率3割以上。03年のシーズン50二塁打は01年谷(オリックス)の52本に次ぐ歴代2位。ベストナイン1度、ゴールデングラブ賞3度。今季は5月まで打撃コーチ兼任。183センチ、88キロ。左投げ左打ち。今季推定年俸3500万円。