木下文信氏 優勝消えても投げ続けたルーキー/連載

10・19の思い出を語る木下文信氏

<10・19を戦った男たち~近鉄悲劇から30年~(14)>

1988年(昭63)10月19日。川崎球場で行われたロッテとのダブルヘッダーで奇跡の大逆転優勝を目指して戦った近鉄の夢は最後の最後で阻まれた。あれから30年。選手、コーチ、関係者ら15人にあの壮絶な試合とはいったい何だったのかを聞いた。

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球史に残る伝説の試合を締めくくったのはルーキー左腕だった木下文信(52)だった。

◆第2試合 延長10回裏1死一塁から5番手としてマウンドへ。代打斎藤、古川を三振に仕留め、引き分けのままゲームセットに持ち込んだ。

木下 自分は1年目でしたから、無我夢中だったという記憶しかありません。いったい何が起きているのか。よく分からないまま、マウンドに行ったように思います。準備はずっとしていましたが、登板を命じられたのは10回から登板していた加藤哲さんが優勝の可能性が完全に消滅した時点で荒れ始めていたからではないでしょうか。

延長10回表、近鉄の攻撃が無得点のまま終わった時点で時計の針は午後10時42分から43分に差し掛かろうとしていた。時間制限の4時間まで2分あるかないか。11回目の攻撃チャンスは現実的に消滅していたが、この回からマウンドに立った加藤哲は投球練習の時間も惜しみ、いちるの望みをつなごうと矢継ぎ早の投球。先頭打者に四球を与え、次打者マドロックを迎えた際、早く打席に入るよう催促し不穏なムードが漂った。加藤哲がマドロックを打ち取った時点で試合時間は4時間を過ぎていた。

木下 今になってみると歴史に残る試合に登板したわけで、打たれて終わらなくて本当によかったなと思います。繰り返しますが、ルーキーだった自分にとってこの試合がどういう意味をなしているのかよくわからないまま、試合で投げていたと思います。無我夢中。そうだったとしか言いようがありません。

もしサヨナラ負けで終えていたとすれば、伝説のダブルヘッダーとしての位置付けも少々、変わっていたかもしれない。引き分けのまま優勝を逃したからこそ、今もなお悲劇のドラマとして語り継がれているとすれば、ルーキー左腕が果たした役割は決して小さくはない。ドラフト6位で入団した木下のシーズン32度目の登板だった。

96年からヤクルトに移籍、97年限りで現役引退した。その後は父の事業の一部を引き継ぎながら、不動産会社を立ち上げた。社名は「フォーティーワン」。代表取締役社長として大阪市を拠点に事業展開している。

木下 自分が昭和41年生まれということでこの社名を掲げました。近鉄時代につけていた背番号も「41」でしたしね。リーマンショックのときは大変でしたが、野球をしていたころの経験も役に立ちました。いろいろな人の助けもあって、今は事業も安定しています。近鉄という球団がなくなり、寂しいですが、今思うと本当に貴重な経験をさせてもらいましたね。負けなくて本当によかったです。

30年前の出来事にもかかわらず、まるで昨日のことのように安堵(あんど)の表情で締めくくった。(敬称略)