阪急黄金時代、4番といえば長池だった/パ伝説

現役時代について笑顔で話す長池徳士さん(撮影・高垣誠)

<復刻パ・リーグ伝説>

長池徳士(あつし)さん(74=現野球解説者)は、阪急黄金期の主砲としてチームを3年連続日本一に導くなど一時代を築いた。4番で1000試合以上に先発出場し、本塁打王や打点王も獲得。現役引退後は指導者としても秋山幸二ら多くの主軸選手を育てた長池さんに「4番とは」を聞いた。【取材・構成=高垣誠】

  ◇   ◇   ◇  

左肩にアゴを乗せるような独特の構えから鋭い当たりを連発した長池は、阪急が初優勝した67年に125試合で4番を務め優勝に貢献。通算1005試合で4番打者として先発出場したスラッガーだ。日本シリーズでも主砲として巨人と戦った。75~77年には広島、巨人を倒して日本一3連覇も達成している。

だが、順風満帆なスタートだったわけではない。プロ入り当初は内角が打てず、青田昇コーチにマンツーマン指導を受け、徹底した練習で克服した。

長池 キャンプで練習が終わった後、毎日400~500球は打っていました。マシンを内角ギリギリに設定して、打席の一番前に立って打つんです。そりゃ詰まってばかりでしたよ。手が腫れ、マメはつぶれて血まみれになる。手のひらと甲が腫れると、手が握れなくなるんです。

あるとき、西本監督に言われ手を見せた。そのときは何も言わなかったが、後年、かつての指揮官は「手を見て、こいつはモノになると思った」と言ってくれた。壮絶な練習量で苦手だった内角打ちが得意になり、本塁打王3回を誇る4番打者に成長した。

打撃の師匠は青田コーチだったが、4番の“手本”はそばにいた。64年に入団したスペンサーだ。

長池 不調のときには打撃を教えてくれたりして、当時のことを今思うと、自分を成長させ、育ててくれたと思います。

長池は内角を狙い打つため、外角の変化球を引っかけて内野ゴロになることが多かった。走者がいれば併殺打になることも多いが、スペンサーが一塁走者のときは「大丈夫だ、オレが防いでやる」と言って“殺人スライディング”と呼ばれた猛走塁で併殺打を阻止。その安心感から、若き日の長池は自分の形を崩すことなく、思い切った打撃ができたという。

スペンサーは走者がいれば最悪でも右打ちで進塁させるなど、4番としての責任感をプレーで示した。長池もその姿を見て、4番の心得をつかんでいった。また、スペンサーは勇猛なプレーの一方で“野球博士”の異名も取る知識豊富な選手だった。ノートに相手投手のクセを克明にメモし、そのデータを利用して打撃に生かす細かさもあった。長池はあるときこっそり彼のノートを手に取り、通訳に何が書いてあるのか聞いた。投球時の手首のシワなど、投手1人ひとりの特徴が記してあったという。その内容に感心し、自らもノートをつけるようになった。

西本監督には「4番は休んではいけない」という心構えを教えられた。ある年のオープン戦で、足を捻挫してしまった。松葉づえを使うほどで、長池も「開幕1週間前だし、開幕戦は無理だなと思っていた」。ところが、指揮官は「走れなくてもいいから、とにかく出ろ」。結局、テーピングをして強行出場した。

長池 4番は休めない。チームの柱だから、ケガをしてはダメ。乱闘で退場になってもいけない。そういうポジションなんです。最初のうちは自分の目標に向かっていくだけでしたが、次第にそういう役割が分かってきました。

プロ野球タイ記録の4打数連続本塁打(67年)、パ・リーグ記録の32試合連続安打(71年)など、タイトルのほかに数々の記録も打ち立てた長池は、79年に引退。その後は西武、南海、横浜などでコーチを歴任した。自身がそうだったように、バットを振らせ、打ち込ませる指導で、西武では秋山幸二、南海では佐々木誠、横浜では鈴木尚典ら強打者を育てた。

現場から離れた今も、ジムに通い体を鍛えている。たとえば、古巣のオリックスについて「4番の吉田正は40本打てる能力がある。1、2番なら宗や西野がいいかなとか、つい考えちゃうんですよね」と笑う。野球に対するその情熱は、74歳になった今も燃えている。(敬称略)

◆長池徳士(ながいけ・あつし)1944年(昭19)2月21日生まれ、徳島県出身。本名および78年までの登録名は徳二(とくじ)。撫養から法大を経て、65年の第1回ドラフトで阪急(現オリックス)から1位指名を受け入団。1年目から1軍に出場し、7本塁打。以後、主力打者として活躍。最優秀選手2回、本塁打王3回、打点王3回、ベストナインには外野手で6回、指名打者で1回の計7回選出。73年の43本塁打は球団記録。32試合連続安打のパ・リーグ記録なども保持。79年に引退後は、南海、西武、横浜などでコーチを務めた。現役時代は175センチ、82キロ。右投げ右打ち。現在は福岡放送解説者。