巨人池田、今年は1軍凱旋登板で地元新潟に恩返しだ

地元新潟での凱旋(がいせん)登板へ気持ちを高めた出雲崎町出身の巨人池田(撮影・桑原幹久)

故郷に錦を飾る-。出雲崎町出身の巨人池田駿投手(26=新潟明訓)が19年の目標に地元新潟での凱旋(がいせん)登板を掲げた。プロ2年目の18年は2月の春季キャンプでの左肩肉離れで出遅れたが、5月に復帰。8月にはプロ初勝利をマークするなど27試合に登板した。プロへの道を切り開いた母校・新潟明訓時代の思い出を振り返りながら、飛躍への思いを口にした。【取材、構成・桑原幹久】

18年は激動の年だった。春季キャンプで左肩を肉離れ。5月に1軍登板も、6月12日ソフトバンク戦で右ふくらはぎに打球が直撃し、再び戦線を離脱した。うれしい出来事もあった。8月4日中日戦。同点の6回から菅野の後を継ぐと、2回を無失点。直後に長野の勝ち越し本塁打が飛び出し、通算45試合目の登板でプロ初勝利が舞い込んだ。

池田 闘病中の義理のお父さんにウイニングボールを贈ることができて良かった。ベッドの上でインタビューを見て、泣いている動画が義理のお母さんから送られてきた。うれしかった。

プロ生活を支える土台はもちろん18年過ごした新潟にある。兄遼さんの影響で小3から穂波(現出雲崎)スカイヤーズで野球を始め、出雲崎中では軟式の野球部に所属した。

池田 小学校が12、13人、中学校が11人くらいのチーム。その中でも下位打線で、へっぽこ選手でした。

兄が進学した新潟明訓に憧れ、同校進学を決意。一般入試で入学を果たした。

池田 親に「進研ゼミをやらしてくれ」とお願いした。人生で、あんなに勉強に集中したことは振り返ってもないですね。

だが新入生20人中9割が推薦入学のエリートの輪にうまく入れなかった。

池田 推薦クラスとはクラスが違って理系に1人ぽつんと。「お前、誰?」って感じで孤独感がすごかった。

逆境を乗り越えられたのは恩師の一言だった。入学1カ月後。練習後のミーティングで佐藤和也監督(現新潟医療福祉大監督)が「池田はプロになれるぞ!」と話した。

池田 あの一言で居場所ができた。「よっしゃ、頑張ろう!」という気になったし、プロという、心のどこかにある小さな希望がちょっとずつ大きくなり始めました。

努力を重ね、3年春にはエースの座をつかんだ。夏県大会決勝で日本文理を下し、3年ぶり甲子園出場を決めた。甲子園でも好投。同校初の8強入りの快挙を成し遂げた。

19年は新潟では5月8日DeNA戦、9月3日中日戦の2試合が予定されており、凱旋登板への思いは強い。

池田 (地元登板は)ファームでしかない。今年こそは1軍のマウンドで。将来的に引退したあとも、野球に関わるかどうかに関係なく、新潟に戻って恩返しがしたいです。

地元への強い思いを口に、19年の飛躍を誓っていた。

◆池田駿(いけだ・しゅん)1992年(平4)11月29日、出雲崎町生まれ。新潟明訓ではエースとして3年夏甲子園ベスト8。専大、ヤマハを経て16年ドラフト4位で巨人入団。17年4月1日中日戦でプロ初登板。174センチ、71キロ。左投げ左打ち。19年の推定年俸1700万円。