今も輝く星野さんの魂 親交50年友人が明かす秘話

今日4日は、中日、阪神、楽天の元監督で、楽天球団副会長だった故星野仙一氏(享年70)の一周忌にあたる。プロ入りした中日時代から、約50年もの交友関係にあった小川高千穂氏(71=姫路市在住、龍野クラシックゴルフ倶楽部営業部長)が、生前をしのびながら、深い付き合いを振り返った。

星野が人生の幕を下ろして1年がたった今、小川は「私の生きがい、財産でした」と振り返った。同じ年だった2人の出会いは、小川が愛知学院大歯学部の大学院生で、中日2年目だった星野の歯科治療にあたったのが始まり。最後は以前より会う機会は少なかったが、それまでは家族ぐるみの付き合いだった。

中日でプレーし、監督を務めた星野は、その後、阪神、楽天でも指揮を執った。「燃える男」「闘将」と称され、エースとして宿敵巨人に立ち向かうなど通算146勝をマーク、将としては3球団でリーグ優勝の輝かしい功績を残した。最後に会話を交わしたのは、殿堂入りした直後にかけた電話だった。

星野との古い付き合いで、小川が恩義を感じている1つは、1995年(平7)に起きた阪神・淡路大震災から1カ月もたっていない2月9日の出来事。その前年10月、評論家だった星野とゴルフに興じた際、姫路市内で子供会会長だった小川は、地元の小学校で開く講演会に出席する了解を取り付けていた。

戦後初の大都市直下型地震に見舞われ、甚大な被害を受けた関西地方の交通網は分断されていた。「新幹線のダイヤもむちゃくちゃだったし、内心は無理だと思いました」。1週間前にもスケジュールを確認しあったが、もはや講演会を中止せざるを得ないと踏んだ直後だった。

「まだ携帯電話も普及してないし、本人と連絡もつかない。私は姫路駅のプラットホームで、ひたすら新幹線を待ち続けたんです。星野の『よしっ、行ってやる』といってくれた、その一言だけを信じてね」

すると、開演時間が迫った夕方、星野は現れた。その日明け方、名古屋の自宅を出て、新幹線で東京駅を経て羽田空港に移動、空路岡山へ飛んで、空港からタクシーで岡山駅、そこから新幹線を乗り継ぎ、約12時間もかけて姫路駅にたどり着いたのだ。星野の姿を見つけた小川は「ありがとう」と思わず抱きついた。

「ありえなかった。驚きました。震災から間のない時期で重苦しかった。本人はブスっとしていた。でも、星野は『こういうときの約束こそ守らにゃいかんやろ。(会場を)熱気で熱くするぞ』と言った。もう涙が止まらなかった」

小川は、阪神監督として18年ぶりのリーグ優勝を果たした03年も、たびたび甲子園を訪れている。当時の監督室からは、ファンが球場を行き交う光景を見ることができた。

「阪神監督はよほどのプレッシャーだったと思います。試合後は裸になって、倒れ込むようにソファにもたれていた。いつも窓越しに『これで負けたら腹切りもんやな』と話していたのを覚えています」

中日、阪神で頂点に立った後は、北京五輪でメダルを逸して奈落に落ちる。しかし、東日本大震災の逆境に立ち向かい、楽天で日本一を成し遂げた。野球を愛し、ファンを熱くさせた男。「星野伝説」は永遠に語り継がれる。(敬称略)【寺尾博和】