<虎だ虎になれ!>
中日、阪神、楽天の元監督で、楽天球団副会長だった星野仙一氏(享年70)の死去からちょうど1年となった4日、各地で故人をしのぶ声が上がった。03年阪神優勝当時の担当キャップだった高原寿夫編集委員はコラム「虎だ虎だ虎になれ!」で、星野DNAを受け継ぐ男のストーリーをつむいだ。
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矢野燿大率いる新生阪神に初めて1軍指導者として加わるのが外野守備走塁コーチの筒井壮だ。筒井が「星野仙一のおい」であると知らない人もいるかもしれない。星野の姉の息子である。
小学生の頃、星野に対するイメージは「困ったおじさん」。大阪・茨木市の自宅でテレビを見ているとゴロリ寝転がっている星野が足の指で筒井の耳をつまむ。「それが痛くてね。なんやねん。この人は、と」。すでに中日でスターだった星野だが、筒井にはピンとこなかった。
野球一筋の星野だが、あの世代の男としては家族を大事にしたタイプではないか。大リーグを通じ、米国文化を吸収。家族を大切にするスタイルも学んだ。中日監督時代は室内練習場でホームパーティーも開催した。
だが身内には厳しかった。周囲の忖度(そんたく)を何より嫌った。筒井はアマ時代、上宮高、明大で鳴らした。だが星野が中日監督時代にドラフト指名した順位は「7位」。実際はもっと上位の予定だったが他球団が「星野のおい」を指名しないと予期し、星野が7位指名に決めた。
入団発表でも一騒動あった。筒井に与えられる予定だった背番号は「4」。だが星野は「なんでひと桁なんや! 俺は聞いてないぞ!」。結局「37」になった。
「簡単には1軍に上げてもらえませんでした。他のヤツと同じなら使わないぞ、と言われてましたから」。厳しい星野に対して筒井からも自然と「リミッター」を設け、距離を置いた。中日時代、さらに星野SD(シニアディレクター)時代の阪神に移籍してきてからもじっくりと話すことはなかったという。
その「リミッター」が外れたのは楽天が日本一に輝いた13年オフ。兵庫・芦屋近くの路上で偶然、2人のクルマが隣に並び合ったことがきっかけだった。そして17年12月24日。クリスマスイブ、芦屋にある星野の自宅に呼び出され、約3時間も2人で話し込んだ。11日後の18年1月4日に亡くなる星野と最期の会話だった。
「雑談ばかりでしたけど。阪神と言うよりは野球界の未来を心配してましたね」
そして筒井は1軍に来た。指揮官・矢野は中日時代、やっとの思いで2軍から上がってきた筒井の指導役だった。昨季、ファーム日本一に輝いた矢野をコーチとして支え、1軍でも栄冠を目指す。
「球界にはすごい人が多いけれどみんなに好かれたという意味ではおじさんはNO・1。もっと話したかったですね」。星野が去って1年。そのDNAを受け継ぐ男の新たな勝負が始まる。(敬称略)【編集委員・高原寿夫】