大石大二郎氏の原点 近鉄西本、仰木両監督/パ伝説

81年、戦況を見守る近鉄西本監督

<復刻パ・リーグ伝説>

日刊スポーツ評論家陣が現役時代を振り返る1月のオフ企画、「復刻! パ・リーグ伝説」の第3弾は、元オリックス監督で現在は社会人野球のジェイプロジェクトを率いる大石大二郎氏(60)です。今回は「私の恩師」として、大石氏が近鉄元監督の西本幸雄氏(享年91)と仰木彬氏(同70)を語ります。「闘将」で知られた西本氏と「マジシャン」と呼ばれた仰木氏。2人の指揮官をよみがえらせます。【取材・構成=堀まどか】

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パ・リーグを代表するスピードスターは、息の長い指導者になった。オリックス監督代行から監督に昇格した08年はチームをクライマックスシリーズに導き、ソフトバンクヘッドコーチを務めた11年は自身初の日本一を経験。現在はジェイプロジェクト監督として、働きながら野球に打ち込む選手を率いる。幅広い指導の根底に、闘将であり知将であった西本、仰木との出会いがあった。

プロ1年目の開幕直前。西本と大石をつないだのは、仰木だった。

大石 開幕10日前くらいだったかな。内野守備走塁コーチの仰木さんから電話があって「明日から1軍に来い」と。走るのが2枚欲しい西本監督の要望でした。

当時の近鉄には、ファンから「近鉄特急」と呼ばれた藤瀬史朗がいた。ここ一番で「代走・藤瀬」の札を切る前に使える俊足選手として、大石が抜てきされた。的確な助言で助けてくれたのも仰木だった。

大石 プロ4、5年目のころだったと思います。足を期待されたのに、盗塁数が少なかった。「成功率を落としてもいいから、もっと盗塁しろ。走れ。スタートを切れ」と言ってくれた。

大石にとっての金言になった。87年オフ、最下位の責任を取って退任した岡本伊三美の後任には、生え抜きの大物OBを推す動きもあった。だが近鉄本社がチーム再建を託したのは、ヘッドコーチの仰木。監督としての手腕は未知数でも、大石には期待感があった。

大石 自分が監督になったときには、と勉強されている姿を見たことがあるんです。データとか集めながら。そういう姿を見ていたから、失敗しても、反感というかこうやれば良かったのにな、という思いはなかったですね。投手に関して、勝ちの権利が発生する前に降ろしてしまう、というケースがあったんです。普通だったら降ろせない、降ろさない。でも降ろすだけのデータなり、代えた方がいいと思う材料の根拠が監督にはあったんです。

88年4月22日の西武-近鉄戦。先発の加藤哲郎は4回まで西武を無得点に封じ、2点のリードを守っていた。だが5回2死一塁で石毛宏典を打席に迎えたとき、仰木は吉井理人への交代を球審に告げた。プロ通算2勝目の権利をあと1アウトで“取り上げた”交代は「非情采配」と言われ、論議の的になった。

大石 我慢して育てるのもプロの監督だし、見切ってしまうのもプロの監督。仰木さんは見切る方だった。でも、その投手がもっと勝つために厳しい状況を突きつける狙いもあったかもしれない。継投は難しい。結果で代えるのなら、誰でも出来る。結果が出る前に代えるのは勇気がいるし、裏表で批判も浴びるし称賛もされる。結果の前に代えることが出来る監督だった。

投手の心情を思えばなかなか出来ない決断を、仰木は下した。王者・西武を相手に厘差で優勝を争った88、89年のペナントレースを思えば、1試合の勝ち負けは天と地の違いだった。

大石 シーズンの最後の1試合1試合で優勝の行方が左右される。シーズンのサビの部分でやる野球を最初からやろう、というのが仰木監督の考えだった。1勝できなかったために優勝争いの輪の中に入れないことは、当然ある。指導者としての長い経験の中から、仰木監督はそういう考えを持っておられたと思う。

優勝こそ逃すも、4月22日西武戦の勝利は、10月19日シーズン最終戦まで続いた優勝争いにつながった。仰木近鉄が最も輝いた88年も89年も、加藤は大事な試合を託せる投手だった。

大石 2年間、楽しんだ。野球をやっていて良かったなという2年間でした。

恩師・仰木を理解し、球史に残る2年間の激闘を享受した。

大石のプロ1年目は、近鉄監督・西本の最終年だった。81年の1シーズン、ともに戦う中で西本は強烈な印象を大石に残した。

大石 そこにおられるだけで、ピリッとしたというか、背筋が伸びるというか、そういう雰囲気を出される監督だった。

出会いで緊張し、試合になれば監督・西本の姿に大石は驚いた。

大石 両軍投手が合わせて約300球くらい投げますよね。9回投げ終われば、それくらいの球数。その両方を1球1球ずっと、体でタイミングを取っておられた。攻めるときも守るときも。上半身でスイングのタイミングを取りながらずっと。それを見ただけでも、監督の集中力のすごさが分かりました。

「闘将」を支える力は、新人大石にとって衝撃的なものだった。(敬称略)

◆西本幸雄(にしもと・ゆきお)1920年(大9)4月25日、和歌山県生まれ。和歌山中(現桐蔭)-立大から社会人の東洋金属-八幡製鉄-全京都-星野組を経て50年、毎日(現ロッテ)の創立と同時に入団。55年に引退した。毎日の2軍監督、コーチを務め、60年に大毎監督に就任し優勝(同年退団)。63~73年阪急監督で5度、74~81年近鉄監督で2度リーグ優勝も日本一はなし。79年正力賞受賞。88年殿堂入り。11年11月25日、91歳で死去。

◆仰木彬(おおぎ・あきら)1935年(昭10)4月29日、福岡県生まれ。東筑から54年に西鉄入り。二塁手として西鉄黄金時代の一員として活躍。67年に引退し、西鉄、近鉄コーチを経て88年に近鉄監督に就任。89年にリーグ優勝した。94年からオリックス監督に就任し、95年にリーグ制覇、96年に日本一。04年に野球殿堂入り。同年末に近鉄・オリックス合併球団の初代監督に就任するも、健康面の不安で1シーズンで勇退。05年12月15日に70歳で死去。監督通算988勝。

◆大石大二郎(おおいし・だいじろう)1958年(昭33)10月20日、静岡県生まれ。静岡商-亜大を経て80年ドラフト2位で近鉄入団。俊足巧打の内野手として活躍し、82年に新人王。盗塁王4度。通算415盗塁はプロ野球7位。97年引退。近鉄コーチ、08年途中から09年までオリックス監督、ソフトバンクのヘッドコーチなどを歴任し、16年12月から社会人野球のジェイプロジェクト監督を務めている。