山田久志氏 王さんに浴びた逆転サヨナラ弾/パ伝説

71年10月15日、日本シリーズ第3戦、巨人王にサヨナラ3点本塁打を浴び、しゃがみ込んで悔しがる阪急山田

<復刻パ・リーグ伝説>

日刊スポーツ評論家陣が現役時代を振り返る1月のオフ企画「復刻! パ・リーグ伝説」の最終回は、阪急ブレーブスのエースとして通算284勝をあげた元中日監督・山田久志氏(70)の登場です。71年10月15日の日本シリーズ第3戦(後楽園)で、王貞治氏(ソフトバンク球団会長)に浴びた逆転サヨナラ本塁打。最強サブマリンがベストゲームにあげたのは、意外にも打たれたシーン。あの伝説の名勝負です。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

ベストゲームを問われて、少し考え込んだ。メモリアルゲーム、節目の勝利…、どれもピンとこない。「勝った」「抑えた」ではない。逆に、「やられた」ほうの試合を、ベストゲームに挙げたい。劇的すぎて、もう漫画の世界。人生を変えたといっても過言ではなかった。

1971年10月15日、後楽園球場。巨人との日本シリーズは1勝1敗で第3戦を迎えた。プロ3年目のわたしはその年、22勝(6敗)で絶好調だった。先発で8回まで2安打に封じ、チームは1-0でリードした。あと最終回を抑えれば、わが阪急ブレーブスは、そのシリーズで圧倒的有利に立った。

9回裏1死で柴田勲さんに四球をだした。柳田(真宏)選手を打ち取り、2死までこぎつけたが、長嶋茂雄さんの中前打で、2死一、三塁。ここでなんと王貞治さんに逆転サヨナラ本塁打を浴びてしまった。その瞬間から、わたしの記憶は飛んでいる。後でビデオをみると、膝が抜けて立ち上がれず、マウンドにしゃがみ込んでいた。

西本(幸雄=監督)さんがマウンドの途中まできた。福ちゃん(福本豊氏)がそばにいて、抱えられるようにベンチに下がった。宿舎で西本さんから部屋に呼ばれたのは覚えている。「今日は息抜きしてこい」といわれたが、そんな気になれず、外で食事を済ませて、すぐに帰った。

阪急のエースは、ヨネさん(米田哲也氏)、カジさん(梶本隆夫氏)、足立(光宏)さんで、若手のわたしは、その座を引き継ぐ勢いを示した年だった。

スピードが乗って、制球も乱れない。そこを“世界の王”に、てんぐの鼻っ柱を、バシッ! と折られたわけだ。

翌朝の新聞には、王さんは大ヒーロー、こちらは「勝負弱い」「経験不足」「采配ミス」などと、厳しい記事が掲載された。

なぜ、あそこで柴田さんに四球を与えたか不思議でならない。これで勝てると、思い上がったのかもしれない。

柴田さんとの勝負でなく、自身が冷静さを欠いた。敗因は、王さんに浴びた1発ではなく、1つの四球だった。あれが「油断」というものなのだろう。

現在、ネット裏から評論をする身のわたしが「四球」に厳しいのは、自分があの場面を身に染みて体験しているからだろう。

では、どうしてあれがわたしのベストゲームなのか? それは、王さんのコメントが表している。

「今でもあの対戦が、球史に残る名勝負として語り継がれるのは、山田君があの後、プロ野球の世界で頑張ったからです」

あそこで打たれたからこそ、緩むことなく、勝負に徹することができた。逆に、うまく抑えて、1-0で逃げ切ったら、わたしはどうなっていたかわからない。あの1球が山田を成長させたのだ。

実は、初めて、秋田で暮らしていたおふくろ(ヨシ)を球場に招待した試合だった。12歳のときに父(久三郎)を亡くし、女手ひとつで育てられた。

あれから、おふくろは2度と球場に来なかった。よほどショックだったのだろう。球宴も、地元秋田での試合も、いくら声を掛けても来てくれなかった。

親不孝をしたと、つくづく思う。わたしも親になって、初めてその気持ちが分かった。わたしの野球人生のなかで、ほろ苦い、そして大切な「1球」だ。