野茂で始まりイチローと共に幕 元記者が平成語る

近鉄時代の野茂英雄の投球フォーム(1991年撮影)

平成の終わりとともにイチローが現役を引退した。1992年…平成4年にオリックスでデビューし、平成を駆け抜けた28年間のプロ生活だった。清原和博、野茂英雄、松井秀喜、松坂大輔、田中将大、大谷翔平…平成31年間で数多くのスターが野球界に登場した。そして令和時代は、どんな選手たちが球場を沸かせてくれるのだろうか。プロ野球の取材経験が長い日刊スポーツ編集局長の森田久志、編集局次長兼野球部長の沢田啓太郎が、移りゆく時代のプロ野球を語った。(敬称略)

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-平成の野球界を振り返りたい。日刊スポーツの記事は西暦表記だが、今回は平成で表す

森田 平成は野茂とともに始まったと言っていい。平成元年のドラフトで史上最多となる8球団の指名を受けて近鉄に入団した。ドラフト史上初めて契約金が1億円を超えたと話題にもなった。

沢田 衝撃的だった。体をクルッとひねるトルネードから見るからに重い球がズトンとミットを揺らした。黄金期の西武に立ち向かう構図もワクワクした。

森田 清原との対決は「平成の名勝負」と言われた。初対決は平成2年。無死満塁の好機に、清原が直球で空振り三振を喫した。

沢田 清原が深刻なスランプに陥ったとき、野茂からホームランを打って復活したことがあった。あれも印象的だった。

-平成3年、3試合連続完封を狙う野茂から152打席ぶりの本塁打を放っている。通算の対戦成績は118打数42安打、打率3割5分6厘、27打点、10本塁打…そして34三振

森田 チームの勝負を超えた真っ向勝負がファンの心を躍らせた。私はその頃ロッテ担当だったこともあり、パが注目されてうれしかった。清原との対戦といえば、伊良部秀輝も忘れてほしくない。「新平成の名勝負」と呼ばれた。

沢田 伊良部の球は速かった。平成5年だったかな、当時の日本最速158キロを出した。清原が相手だった。

森田 その試合は球場で取材していた。ゴールデンウイークのデーゲーム。伊良部は「清原さんが相手じゃなかったら158キロは出なかった」とコメントした。個々の選手が際立つ時代だったように思う。清原、野茂、伊良部…決して取材がしやすいタイプではなかったが、とにかく個性が強くて魅力があった。

-平成5年にはJリーグが発足した。サッカーブームになり、野球人気の低下が懸念された。ただ、同年には巨人に長嶋茂雄監督が誕生し、松井秀喜が入団した

沢田 私はその年から巨人担当になった。長嶋監督の一挙手一投足が注目され、松井もスケールの大きな選手に育っていった。平成6年には中日と同率でリーグ最終戦を迎えた。あの「10・8」は忘れられない。長嶋監督が「国民的行事」と称し、選手に「勝つ!勝つ!勝つ!」とゲキを飛ばした。槙原寛己―斎藤雅樹―桑田真澄のリレー。この試合を語り出すと止まらない(笑い)。

森田 その年にはイチローが210安打を放った。これも衝撃的だった。振り子打法でポンポン安打を重ねていく。このとき彼はプロ3年目で、平成4年に入団している。平成31年間のうち28年間をプロとして過ごした。まさに平成とともに駆け抜けた選手と言っていいでしょう。

沢田 イチローが引退すると聞いて、1つの時代が終わると感じた。元号が変わるというだけでない感慨がある。

-平成7年には野茂が大リーグに移籍した。これまで名前が出た伊良部、イチロー、松井ものちに大リーガーになった。日本のスター選手が米国に渡る流れが生まれた

森田 野茂や伊良部の時はルールが整備されておらず大騒ぎになった。野茂は任意引退という形でドジャース入団。伊良部はロッテと業務提携していたパドレスを経由して三角トレードで希望のヤンキースに入った。これでポスティングシステムができ、イチローがマリナーズへ移籍する土台になった。

沢田 野茂が渡米したとき、ちょっと怖い思いがあった。日本であれだけの成績を残した投手が大リーグでまったく通じなかったら、やはり日本の野球はレベルが低いと証明されてしまう。大げさだけど「日本野球のために勝ってくれ!」と思っていた。

森田 野茂は1年目から13勝を挙げ、オールスターにも出た。大リーグは前年に選手会のストライキでシーズンを中断している。野茂の登場で、大リーグも救われたんじゃないかな。

沢田 その後も投手が続いた。長谷川滋利、柏田貴史、伊良部、吉井理人、木田優夫、大家友和、佐々木主浩…日本の投手は大リーグでも通用すると証明してくれた。

-平成13年には初の野手として、イチローと新庄剛志が大リーガーになった。イチローは242安打を放ち、首位打者と盗塁王を獲得した

森田 イチローは大リーグでも間違いなく殿堂入りする。大リーグの歴史に残る活躍だった。新庄もメッツで123試合に出るなど成績を残した。ここから野手もメジャーを目指すようになった。

沢田 田口壮、松井秀喜、松井稼頭央、福留孝介、井口資仁、城島健司、岩村明憲、青木宣親、川崎宗則…大リーグを語っていれば、日本球界のスターを網羅できてしまう。それぐらい海外を目指す選手が増えていった。

森田 平成18年に始まったWBCの影響も大きいだろう。第1回、第2回大会で世界一に輝き、あらためて日本の野球、選手が評価された。侍ジャパンとして定期的に活動し、WBCやプレミア12で世界と戦う。選手の目が世界へ向くのも当然だろう。

沢田 ダルビッシュ有、田中将大、前田健太、大谷翔平…実力も人気も兼ね備えたスター選手はこぞって海を渡り、さらに上のレベルを目指して挑戦する。野茂、伊良部のようなトラブルもなく、松井が「裏切り者と言われても」と言ったような悲壮感もない。

森田 送り出すファンも快く送り出す雰囲気になっているように思う。球団も、そう。だから日本球界に戻ってくる選手も多い。メジャーで経験を積んだ黒田、斎藤隆、上原浩治、岩隈久志が日本球界に戻り、若い選手にとっては学ぶ点も多いだろう。黒田が戻って広島は25年ぶりの優勝を果たした。この流れは球界にとって喜ばしいと思っている。

沢田 ただ、メジャー移籍ばかりが成功とは思っていない。ずっと日本でプレーしたスターの名前も出したい。古田敦也、金本知憲、谷繁元信、高橋由伸、岩瀬仁紀、新井貴浩らも、平成の球界を盛り上げてくれた。

森田 日本球界は監督の人気も高い。平成の初期、日本シリーズで西武森祗晶監督とヤクルト野村克也監督の名将対決は楽しかった。平成12年には巨人長嶋監督とダイエー王貞治監督のONシリーズも実現した。野茂やイチローを世に送り出した仰木彬監督、原辰徳監督、星野仙一監督、落合博満監督も平成を代表する監督といえる。

沢田 平成の最多リーグ優勝は、パが西武森監督の5回、セが巨人原監督の7回。日本シリーズになると森監督、野村監督、原監督の3回に、昨年ソフトバンク工藤監督が並んだ。

-平成の31年間でプロ野球界は大きく変わった

森田 ストライキも伴った平成16年の球界再編騒動が大きなポイントだったでしょう。新球団が生まれ、交流戦も実施された。巨人人気に頼る経営ではなく、それぞれが各フランチャイズで人気を得ている。昭和時代には想像もつかなかった形といっていい。選手たちもファンの存在を一層意識するようになったと感じる。ファンサービスに熱心な選手も増えた。社会の中で「プロ野球とはどんな存在であるべきか」を考えていく必要はあるだろう。

沢田 平成7年に起きた阪神・淡路大震災の後はオリックスが「がんばろう神戸」というスローガンで戦った。平成23年の東日本大震災の後は、選手会長だった嶋基宏が「見せましょう野球の底力を」というスピーチをした。決して簡単ではないが、球界が、選手個々が「自分たちにできることは何か」を考えて行動していた。

森田 今もさまざまな活動を続けている選手も多い。プロ野球は単に娯楽ではなく、社会や多くの人々に大きな影響を及ぼす存在だと思う。そこを自覚する選手が増えていることを心強く思う。

沢田 プロアマ問題も雪解けに向かっている。元プロ選手が講習を受ければアマチュア選手を指導できる。まだまだプロアマが一体ではないし、他の競技と同様にパワハラまがいの指導もあると聞く。アマ球界では球数制限など選手の健康に関する問題にも取り組んでいく必要がある。だれにでも楽しめる、多くの人々に愛される野球であってほしい。そのための検討課題は数多い。

森田 そうした問題に対する提言をした筒香嘉智は頼もしく感じる。打者としても人間としても野球界を引っ張る選手になってほしい。柳田悠岐、坂本勇人、菅野智之、鈴木誠也がどんな選手になっていくかも楽しみだ。

沢田 若手でいえば、二刀流の大谷がどんな選手に育っていくのか。清宮幸太郎は何本のホームランを放つだろうか。

森田 今年のルーキーにも注目選手は多い。根尾昂、藤原恭大、小園海斗、吉田輝星。彼らの中から令和の野球界を支えていく逸材が出てくるのではないか。

沢田「令和の名勝負」も生まれてほしい。時代が変わっても、野球が、プロ野球が愛され続けてほしいと願う。