高橋智、仰木マジックなじめず1軍拒否も/パ伝説

オリックス時代の高橋智(1994年8月12日撮影)

<復刻パ・リーグ伝説>

194センチ、100キロの巨体から“デカ”の愛称で親しまれた高橋智さん(52)は、1992年(平4)に29本塁打するなどオリックスで一時代を築いたスラッガーだ。現在は名古屋市内で、エレベーターの保守・点検などの仕事をこなす。

「復刻パ・リーグ伝説」で厳しく鍛えられた若手時代の思い出や、出場機会を失って苦しんだことなど、激動の野球人生を振り返ってもらった。【取材・構成=高垣誠】

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高橋さんは現在、エレベーターの保守・点検などの仕事で名古屋市近辺の得意先などを駆け回っている。ビルなどの人を運ぶエレベーターだけでなく、荷物を運ぶ小型のものや、自動車生産ラインの工業用のものなど、さまざまなエレベーターを扱う。190センチを超える巨体を作業着で包み、月100台ほどを定期的に点検する。

現役引退後、野球解説者などを経て自動車関連の鉄鋼業の仕事をしていたが、08年のリーマン・ショックの時、安定した仕事として知人に声をかけられ転職した。この仕事に就いて10年ほどになる。

プロ野球選手だったことを知っているお客さんもおり、そういうときは野球の話もする。だが、元プロ野球選手のプライドは「ないですね」と言い切る。「そういうのを出したら迷惑だし、お客さんには関係ないですし。エレベーターの保守でサービス業としてやってますから。今は会社、お客様に(仕事で)迷惑をかけないことだけですね」。

現役時代は“デカ”の愛称で、豪快なバッティングが人気だった。投手として入団したが、2年目の秋に野手に転向。当時の水谷打撃コーチに徹底的に鍛えられた。「(秋のキャンプでは)めちゃくちゃ打ちました。手首を疲労骨折するくらい(笑い)。しかも惰性で打っちゃダメだ、場面を想定して打てと」。

猛練習に耐え、素質が花開いた。87年には当時のウエスタン記録となる21本塁打。1軍に昇格して4本塁打も放った。88年限りで水谷コーチが退団後はしばらく苦戦したが、91年、先輩の松永浩美が「練習からセンターから右方向を意識して打て」と助言をくれた。これは、引っ張っろうとして左肩が開くことを防ぐことにもつながった。同年は23本塁打を放ち、92年には6月に月間MVPを獲得する活躍で、シーズンでもキャリアハイの29本塁打、打率も2割9分7厘をマーク。球宴にも出場してベストナインにも選ばれた。

ところが、松永がトレードでチームを去った93年は腰痛に苦しみ、その後も足や手首の故障などに悩まされた。「完全に調子に乗ってましたね。あのとき大谷くん(エンゼルス)みたいな(謙虚な)精神があれば…(笑い)。全然体のケアなんかしてなかったですし、ぎっくり腰なんて何回やったか…。針や整体とか、体に気を使い始めたのは故障してからですよ」。ウエートトレーニングは好きでよくやっていたが「体幹を鍛えるとか、年齢に合ったトレーニングをしておけばもう少し違ったんでしょうけど、ベンチプレスで160キロ挙げた、とか自慢してるなんて…、アホですね」。

故障もあって出場機会が減少した。同時に、イチローや田口ら若手のライバルも台頭。さらに、94年に就任し、相手投手によってスタメンを頻繁に替える仰木監督の“仰木マジック”にもなじめなかった。遠征に出て、相手投手と相性が悪いからと、6試合で代打出場さえなかったこともあったという。“試合に出てナンボ”がプロ野球選手。出場機会が与えられないことに納得がいかなかった。ある年、ほとんど起用がないままシーズン序盤に2軍落ちを通告された。その際、担当コーチに「もう(1軍に)呼ばないでください」と言い切ったという。自分が不利になると分かっていても、黙っていられなかった。シーズン終盤になって何度か1軍昇格の声がかかったが「腰が痛い」とウソをついて拒否したという。

「結局、出場機会が減ったのは自分のせいなんです。スタイルは変えたくなかった。けど、葛藤はあったんですよ。ヒット狙いした時もあったし。あの頃は、何となく野球をやっていた感じです」。放出を志願してヤクルトに移籍。台湾野球を経て02年に現役を引退。今は年数回の野球教室くらいで、野球に関わることは少なくなった。「真剣になりすぎてもいけないし、僕や新庄(剛志)みたいに、考えすぎず野球を楽しめばいいんじゃないですか」。高橋さんは微笑みながら、後輩たちにエールを贈った。

◆高橋智(たかはし・さとし) 1967年(昭42)1月26日、神奈川県生まれ。向上3年夏は県大会決勝で敗れ甲子園出場ならず。84年ドラフト4位で阪急(現オリックス)に投手として入団。2年目オフに野手に転向し92年には打率2割9分7厘、29本塁打、78打点でベストナインを獲得。99年にヤクルト移籍。01年限りでヤクルトを退団し、02年は台湾野球に挑戦するが3カ月で退団、現役を引退。現在は名古屋市在住。夫人と3男の父。現役時代は194センチ、100キロ。右投げ右打ち。

○…高橋さんは阪神・淡路大震災が起きた95年から「がんばろう神戸」で2年連続リーグ優勝した当時のチームについて「チームは個人の集まり。個性的な選手が多く、(震災に対する)スタンスはさまざまでしたが、個々が頑張ればチーム一丸に見えるもの」と明かした。2年連続で日本シリーズにも出場したが、高橋さんは通算6試合に出場したものの、ヒットは打てなかった。「(プロ野球選手は)目立ちたい集団なので、目立ちたかったですが、あの時は目立てなかったなあ」と苦笑いしていた。