元中日小島弘務氏、波乱の野球人生が指導者での糧に

追手門学院大学硬式野球部で監督を務める小島弘務氏(撮影・安藤宏樹)

<ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ>

かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。今回は元中日投手で現在は追手門学院大学硬式野球部で監督を務める小島弘務氏(51)です。

大学中退、社会人を経てプロ入りする際には契約無効になるなど波乱の野球人生を歩んだ小島氏のセカンドステージとは…。【聞き手・安藤宏樹】

-阪神大学リーグで就任1年目の2015年秋に1部リーグ昇格しましたが、翌年からは2部リーグでの戦いが続いています。

小島氏 中学、高校と成長していく中で野球観は育っていくのでしょうが、大学生になるとそれが固まってしまうというか、強い高校から来る学生は特にその傾向が強いので、なかなかチームがひとつにまとまって、というのが難しいですね。高いレベルを目指す学生も少ない中で、どうモチベーションを上げていくかが継続的な課題です。

-就任時のチームはどういう状況でしたか。

小島氏 部員は30人くらいでしたが、バックネットに向かって打撃練習をしている。「何で」と聞くと「ボールを取りにいくのが面倒だから」と…。ちょっと考えられない状況からのスタートでした。能力のある学生もいましたが自分の経験してきた野球とはかけ離れていましたので、さすがに気持ちもめいって、3カ月目あたりはきつかったですね。

-そこから自らも含めた意識改革を始めた。

小島氏 練習の合間に技術論を調べたり、タイプ別の指導法をプロ野球時代の仲間に聞いたりしました。私は投手でしたので、特に打撃についてはいろいろ聞きました。また、少しでも高いレベルに挑むことでいろんな成長ができるということを伝えようと思い、いろんなツテを頼って社会人の練習に参加させてもらい、刺激を与えたり、野球のレベルを上げるのに必要なハングリーさを養うために、強豪大学にも頭を下げて、試合をしてもらったりもしました。今年もたまたま小宮山さんが早稲田の監督に就任されたので、さっそくお願いしました。

-現役引退は33歳。大学野球で指導するまでもいろいろあったと思います。

小島氏 最初は名古屋で焼き肉店を始めましたが、離婚を機に閉めました。そんなときに児童福祉などデイサービスをされている方に声をかけてもらい、事業所で働かせてもらった時期があります。障がいのある子供さんもいて、コミュニケーションを取るのが難しかったりするのですが、ここでの仕事が野球を教えることにも役に立ったと思います。教えていた少年野球チームにも障がいのある男の子がいて、その子との出会いがいまにつながっていると思います。

-ひとりの少年との出会い、ですか。

小島氏 近くに木があると体が止まってしまうといった特徴のある子供でした。虫がいるからと思いこみ、かたまってしまうのだそうです。中学の硬式チームに進むとき、危ないから入れられないと言われました。自分が面倒見ます、とお願いしたのですが、やはりチームの中で活動を継続することは難しかったのです。そこで、近くの学校を借りてマンツーマンで練習を始めました。お互い必死でした。高校に進学する際は中学校から普通高校は難しいと言われ、学校の進路面談にも出させてもらったこともありました。本人は高校野球がやりたい、と。そこから彼なりに必死で勉強もしたのだと思います。私もできる限りサポートしようと決めました。高校に進み、3年間硬式野球をやり、いまは大学の野球部でマネジャーをしています。

-その少年との出会いが本格的な指導者の道につながったわけですね。

小島氏 学生野球の指導回復資格を取りました。京都に帰り、高校でコーチをしているときに、今回の話をいただきました。自分は大学も出てないし、無理だと思い最初は断ったのですが、推薦してくれた人のこともあり、面接を受けたら要請がきました。ビックリでした。

-プロ入りの際も回り道をしています。駒大を中退してから社会人(住友金属)でプレーした後、ドラフト外契約した西武入団が無効とされ、1年浪人してからの中日入りでした。

小島氏 平安高時代は江坂(政明氏=元近鉄)の2番手投手でした。当時もプロから話はあったようですが、駒大に進みました。1年春のリーグ戦が終わったころから先輩投手による意図不明の説教などが続き、これはもう無理だと。新人戦、オープン戦で結果を出して辞めると決め、8月に京都に帰りました。高校から太田誠監督にきちんとあいさつするよう言われましたので監督室にうかがうと「秋のリーグ戦での背番号も決まっていた」と慰留されました。でも自分の気持ちは固まっていたので「辞めます」と言って帰りました。しばらくすると高校を通じて太田監督から連絡があり「永平寺で2、3カ月修業したら、どこでも好きなチームを紹介する」と。慰留を振り切って退部した人間に温かい救済措置です。でも当時はまだ生意気盛り。せっかく手を差し伸べていただいた話も断り、1年間、アルバイトしながら自分で野球のできるところを探しました。同級生のオヤジさんが勤務されていた住友金属にお世話になることができたのです。

-そこで評価され、89年に西武とドラフト外で契約を交わします。ところが年が明けて春季キャンプに参加した後に野球協約違反で入団が取り消される「事件」の当事者となります。

小島氏 入団会見して、キャンプに参加して、2軍のオープン戦にも投げた後で「協約違反」ですからね。考えられなかったです。ただ、住友金属が連盟に出す書類には「平安高卒」と記載されていたのは確かのようで、高卒社会人のプロ入団までは3年間というルールを適用されたわけです。

-当時のドラフト制度は各球団指名6人以内で、ドラフト外契約が認められていました。社会人の選手は大学中退でも2年在籍でプロ入りできるとされていたのですが「高卒=協約違反」で西武入団は無効。翌年以降も西武との契約は認められないとの裁定が出ます。そこで各界に広い人脈を持つ球界の大物・根本陸夫氏(当時西武管理部長)と濃密なかかわりが出来るわけですね。

小島氏 処遇については根本さんが「小島は会社を辞めて西武にきている。西武の責任で面倒を見させてください」とオーナーにかけあってくれました。契約金は当面そのまま。次のドラフトで条件が下回れば差額は西武が補償。上回れば全額返済してくれればいいと。給料も「人生をかけて西武にきた」と支給していただきました。さらに「西武の根本ではなく、根本個人が責任を持って面倒をみる」ということで、東京・小手指にあるご自宅の2階に夏ごろまで下宿させていただきました。近くの学校のグラウンドを借りて、毎日ネットピッチングとランニング。フォームもつきっきりで徹底的に修正されました。最初は「この人、ひまなんかな」と思っていたのですが、毎日必ずお客さんがくる。電話もジャンジャンかかってくる。「よう、ナカちゃん」とか言う話し声がするので「だれですか」と奥さんに聞くと中曽根元総理だと。すごい方だとわかるのはもっと後です。その年のドラフトで中日に1位指名していただき、契約金は全額返済しました。その後も亡くなられるまで(99年=享年72)ずっと気にかけていただきました。本当にお世話になりました。

-高校を出てからプロ入りまでの5年の間に2度の浪人生活。現役生活を終えてからもさまざまな経験をされてきました。これからの夢があれば聞かせてください。

小島氏 現役時代は「負けられん」という思いだけで野球をやってきました。突出した技術や身体能力があったわけではない。素直に聞く優等生タイプだったらプロ野球選手になれてなかったと思います。今になって分かることもたくさんあります。野球を通じて多くの方と出会い、サポートしていただいたおかげで今の自分がある。そういう面も伝えていけたらと思っています。そして、最後はどこでもいい。高校野球の監督、やってみたいですね。

◆小島弘務(こじま・ひろむ)1967年10月30日生まれ。京都府出身。平安高から駒大に進むも中退。浪人後に住友金属でプレー。89年に西武とドラフト外で契約も無効。1年浪人を経て90年ドラフト1位で中日入団。98年ロッテ移籍し、99年に戦力外通告。翌00年台湾プロ野球を最後に現役引退。プロ通算167試合に登板、19勝15敗8セーブ、防御率3・60。15年から追手門学院大学硬式野球部監督。