日航機事故社長の死から6連敗…阪神再建の道のりは

1985年8月13日付の日刊スポーツ1面

<井坂善行氏の猛虎知新:第5回 85年苦闘の8月>

日航機墜落、社長の死、死のロード…1985年(昭60)、球団初の日本一となった阪神にとって、8月はまさに「生みの苦しみ」を味わう正念場となった。球団社長の中埜肇氏が搭乗していたJAL123便、ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落したのが34年前の8月12日。乗客乗員520人が犠牲となった。翌13日から巨人、広島、大洋に6連敗。連日、野球どころではない惨事が報じられる中、阪神はどう立ち直ったのか。当時のトラ番、元大阪・和泉市長の井坂善行氏はすべて現場に立ち会い、ニッカン紙面を通じて読者に伝えた。そして今、34年前の夏を振り返る。

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34年前の8月12日。阪神は平和台での主催試合の中日戦に連勝し、後楽園での巨人戦に備え、福岡から東京へと飛んだ。主力は休日。若手と一部投手陣だけが夕方から、神宮の室内練習場で汗を流した。

特段、取材の目的はなかったが、こちらも若手のトラ番だったから、神宮室内へと向かった。狭いし、暑い。たまらず、係員の控室に入れてもらって小さなテレビを見ていると、テロップが流れた。

「羽田空港発のJAL123便、伊丹行の航空機が消息を絶った」-。

一報はそれだけだった。乗客乗員524人。大きな事故にならなければいいが…そんな感想を持ちながら、練習後、宿舎の「サテライトホテル後楽園」に行くと、様相は一変した。球団関係者が悲壮な表情でエレベーターに乗り、乗ったかと思えば降りてくる。だれも話そうとしない。一体、何が起こったのか。断片的な情報を集めていくと、神宮室内で知った日航機の搭乗者名簿に、球団社長・中埜肇氏の名前が確認され、電鉄本社に確認中とのことだった。

時計の針は午後11時、午前0時、午前1時…門限前に宿舎に戻ってきて事故を知った阪神ナインは、一様に言葉を失った。

4日後の8月16日夜、中埜肇氏の死亡が確認されたが、阪神は事故翌日の13日から巨人、広島、大洋に6連敗。このままズルズル…いつもの阪神のパターンである。

実はこの年、選手会長に就任したのが岡田である。今のようなキャプテン制ではなく、選手の待遇改善などを球団に要望する大事な役目で、入団5年目、27歳の岡田を指名したのは、84年までの選手会長だった掛布だった。

その岡田が連敗中の広島遠征で、選手に集合をかけた。昼食後の昼すぎ、首脳陣や球団関係者は入れず、選手だけの緊急ミーティングだった。岡田と掛布と、そして最後に川藤が選手に語りかけた。3人とも内容は「忘れたわ」としか言わないが、野球のことでも、日航機のことでもなく、「ここまできたら負けられん」という猛虎の意地を訴えた。

34年後の矢野阪神も今、この暑い夏を迎え、もがき苦しんでいる。あの時に見せた猛虎の意地は、長い歳月とともに消え去ったのだろうか。

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍を経て、プロ野球デスク。「近鉄監督に仰木彬氏就任」などスクープ多数。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選。1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

◆日航123便墜落事故 85年8月12日、乗員15人と乗客509人を乗せて午後6時12分羽田空港を飛び立った大阪行き日航123便は、機体異常を起こし同6時56分に群馬県内に墜落。乗員と乗客の計520人が死亡、4人が重傷を負う大惨事となった。単独の航空機事故としては世界最悪の大惨事に。阪神の中埜球団社長のほか、歌手の坂本九さんも犠牲となった。